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今井先生の追憶(8)―企業改革のなかで― [祈り]

1999年10月1日、再び活動の拠点を首都圏に移し、埼玉の自宅から東京まで1時間半(往復3時間)をかけた通勤生活がはじまった。前日(9月30日)に茨城県の東海村で発生したJOCによる放射能臨界事故が、ニュースで大きく報道される中、久々の本社に多少緊張感を持って向ったことを記憶している。配属先は、土木設計部。約6年半ぶりの古巣への復帰だ。

かつての同僚・上司・部下もほとんど入れ替わっている。6年という歳月、そして世の中の移り変わりの戸惑いを感じた。担当は、都市土木。シールドトンネルや開削トンネル、あるいはPC構造物の設計業務や液状化対策などが主な業務だった。

当初、9時からの始業時間に合わせて通勤したが、現場生活が快適だったこともあり、毎日のラッシュアワー通勤は私の気分をブルーにさせた。すでに早起き生活が習慣化されていたので、早朝出勤に切り替え、自分のペースを徐々に取り戻していった。ただ、建設業界をとりまく環境が大きく変わろうとしている時期でもあり、時代の変化に取り残されてしまうのではないかという獏とした不安が私の頭の中を満たし始めていた。

結論の出ない長い会議、突然降りかかってきた他現場でのトラブル対応、上司と部下とのコミュニケーション、そして、山のような管理業務・・・自分のペースで仕事ができない重たい組織に多少の嫌悪感を感じだ。現場生活のようなメリハリが欲しいと思った。そして、何とかしなければならないという思いがだんだん募っていった。


本社勤務から一年が経過して、2000年10月から社内改革を盛り込んだ実践型ビジネス研修が始まった。そこに参加した私は自分の、そして会社の将来を改革という目で改めて見直す絶好の機会を得たのである。そんな1年にもわたる長い研修のさなか、今井先生にお会いして、先生のご意見をいただいた。その時のメモ書きが今も残っている。それは次のようなものである。


■今井五郎先生(2000年12月21日)メモ書き
  従来型公共事業の問題点についてその要点を議論した。
  一般的には政治家の問題だと思われているが、それは違う。
  実はその根本は技術官僚に最大の原因があるという。
  大きなスパンで政策を具体化できる事務(文系)官僚が
  これからのキーマンになるだろう。
  また、いまは勝ち組負け組とかなんとかいっているけど、
  将来的に勝ち組が生き残れる保証なんて何もない。
  いまの延長線上で業界が動く限りお先は真っ暗だ。
  いまの50歳前後の人は、決断力がない。
  団塊の世代は、自分ひとりで考えることをしない。
  世の中、なんでこんなおかしくなってしまったのか。
  戦後教育に最大の原因がある。
  S社のY柳君(海外経験長い)からも君と同じような
  意見のクリスマスカードをもたったよ。
  今の日本のゼネコンは完全に戦闘能力を失っている。
  得意な技術を持たないから戦いにならない。
  組織が硬直化している。
  単なる表面的な見学会や講習会では効果はあがらない。
  現場に行かせて現場の問題を自分なりに認識させ、
  レポートにまとめることが重要。
  本社が現場を束ねるべき(現場の集中管理・制御システム)
  仲間意識は必要。
  若者、団塊の世代、どうにかしなければ、・・・大きなうねりの
  中でしっかりと自分の思いをぶつけてみなさい。
  ただし、あまり過激な変化はいかがなものか?
  本質を見失わないことが肝腎だよ。



いま、改めて読み返してみると、先生の先見性に驚くばかりである。



このとき、相前後してさまざまな諸先輩を訪ね、教えを請うた。

◇H所長(12月19日)
  お前がついていくべき人はM副社長だ。
  おまえならできる。
◇同期K氏(12月18日)
  もう上のモンはあてにできない。
  自分でやるしかない。
  会社を変えましょう!
◇U和尚(12月27日)
  自分の思ったとおりおやりなさい。
  自分の信じる道と違っていたら、いつでもやめなさい。
  わたしには、難しいことはよくわからないが、
  大変な時代なんだと思う。
  教育も重要な問題だ。
◇Mさん(学校の先生)(12月28日)
  小学校3年生が、包丁で脅す時代なんだよ。
  公開なんて真っ平ごめんだ。いよいよ給料ダウンだ!
◇K顧問(12月15日)
  外に向かって発信せよ!
  あと2年で会社は一皮むけるよ。


こんなことがあり、20世紀末の年末、そして21世紀の始まりは、読書と瞑想を送る日々となった。


その年末年始のメモ書きを引き続き追ってみる。


【2000年12月31日(日)】

 ■河川、No.651、12/10、(社)日本河川協会:特集 行政改革・省庁再編
 □森野美徳(日本経済新聞記者):行政改革・省庁再編に期待する

  世紀末を迎えて、「災害列島」がいよいよ牙をむき出しにせてきた。
  我が国が先進諸国の中でも例外的にきわめて脆弱な国土基盤の上に
  成り立っている

  1960年代から約35年間にわたって、「自然災害の空白期」が続いて
  きたという歴史的事実である。1959年の伊勢湾台風で5000人余りの
  犠牲者を出したのを最後に、阪神大震災までの35年間にわたって、
  死者・行方不明者が千人を超す自然災害は起こらなかった。

  歴史的偶然とも言うべきラッキーな自然条件の中でこそ、我が国は
  世界で類を見ないほどの繁栄を謳歌することができた。

  日本の自然現象による要因と近代社会の都市化による要因が重なり
  合って、自然災害に対する行政の役割がいたずらに拡大した半面、
  多くの国民が自然災害に対して行政依存の体質に陥り、個々人の
  危機意識は希薄になってしまった。

  →防災上および災害復旧上の観点から、建設産業の役割を見直
   すべきである。
   ・危機意識の強化
   ・防災審査・判断技術:耐震補強だけでなく
   ・東海地震を想定した作戦:ライフライン、人命救助、
    生活食料品、ボランティア要員・・・
   ・災害復旧事例集・災害時に武器となるツールの整備


 ■飯田史彦:ブレークスルー思考-人生変革のための現状突破法、
  PHP、1999年

 2通りのブレイクスルー(p131)
  1)グロウアップ型ブレイクスルー
   場所や相手は替えないままで、自分が成長することによって
   ブレイクスルーを果たそうとする方法。
  2)ステージチェンジ型ブレイクスルー
   場所や相手を取り替えることによって、スタート地点に戻り、
   これまでの学びを生かしながら再出発する方法。

 「この会社で働きながらブレイクスルーに挑戦すべきか、
  それとも転職すべきか」といった選択にあたっての判断基準。

 →1)がダメでも2)もあるさではなくて、「困ったら心地よさを
  優先する」こと。ここでいう「心地よい」というのは、「安楽だ」
  「簡単だ」という基準と違い、「心の奥にひそむ、自分の良心
  (内なる声)」に従うということ。

 「予定通りに、試練が現れてきた」と思うこと。(p145)
  予定通り、私自身が、人生のこの時期に用意しておいた試練が、
  順調におとずれたわ。(p159)

 →思わぬ展開がなければ、今の自分はなかった。
  何故大学で今井先生やT先生にであったのか意味があるはず。
  Nをはじめとする山登りの仲間、MやYといった大学の友人
  なぜ、妻と出会い、Y、U和尚、会社の仲間たちと出会ったのか?

  この経験は俺だけのものだ。
  この経験に基づき、考えたことを文書にしてそれを本にしよう。
  これが予定通りなのだ!

  人間は、なぜ成長しなければならないのか?
  なぜなら、人間は、成長するために最適な存在だからである。

  
ブレイクスルー思考―人生変革のための現状突破法

ブレイクスルー思考―人生変革のための現状突破法

  • 作者: 飯田 史彦
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 文庫


 ■致知:生き方探求 人間学誌、致知出版社、2001年2月号、
  「国家百年の計」

  人類の営みは、狩猟採取から農耕牧畜へ、さらに産業革命を
  経て手工業から近代工業へと展開していく。そしていま、
  二十一世紀のへき頭に当たり、人類は情報化のただ中にある。

  事業にすべからく必要なものは人、物、金という。

  それに先立つ、絶対に不可欠なものがあったのだ。
  それは地中をモグラのように列車を走らせたいという思いである。

  夢といってもいいし、理想といってもいいし、希望といってもいい。
  あるいはインスピレーションともいえるし、アイデアともいえる。
  こうしたい、こうなりたいという思い。

  これが何かを成就させる根源なのだ。


【2001年1月1日(月)】

 ■月刊建設オピニオン:2000年7月、9月、10月

 □7月号 新たなフロンティア 大深度地下への挑戦
  株価は企業の評価。株価が低迷するのは、管理能力のないものが
  上に立ち会社の経営に携わっている証拠だ。

  世当たり上手で、敵がいない、そんな人材が残った。
  慣れない仕事とサービス残業が加わり、ストレスが増す日々である。

  今一つ顧客のニーズが反映されていないのが、公共事業により
  整備されるインフラ設備ではないか。

  あくまでも発注者は最終的な顧客である国民の代理にすぎない。

  →大深度地下の安全性、必要性は理解できるが。
   コスト面の見通し、国民への理解度という観点からのものの
   見方ができていない。

 □9月号 首都圏第3空港の役割を考える
  世界の笑いものといわれる成田空港が日本の玄関であり続ける現状

  大事なのはネットワーク
  必要なのは柔らかいエンジニアリング力
  アメリカのすごみは構想力

  砂漠のラスベガス世界最大のエンターテイメントの町にして
  しまうような構想力

  要するに新しい価値を想像するような町にしてしまう力。

  →自分たちのもっている技術可能性だとか資金だとか人材だとか
   というものをどう組み合わせて、何をすべきか。
   エンジニアリングについての構想力


 ・・・中略・・・


 ■いま想うこと

 思い:自分の生きがいを社会貢献につなげたい

 あまり先を読みすぎると何もできなくなる
 フルモデルチェンジ→パラダイムの転換

 第一に危機意識を強く持つこと。
 第二に会社・組織はこうあるべきだ。
    私はこうありたいと強く思うこと。
    心がたきること。
 第三に具体的に考え、行動すること
 第四走りながら修正すること。





いくつかの紆余曲折を経て、2001年5月、土木設計部を離れ、那須の技術研究所の配属となった。

新しい組織(環境研究所)の立ち上げに奔走する中で、再び今井先生とおつきあいが始まった。それは、粘性土を利用した遮水技術の開発である。このテーマを先生のところに持ち込んだとき、先生は心底喜んでいただいた。

恩師に多少なりとも報いることができたことが、私の活動の原動力になったのだ。




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<和尚のひとりごと>
  ★★★ 自分の生きがいを社会貢献につなげたい ★★★

<キーワード>
  ・第一に危機意識を強く持つこと。
  ・第二に私はこうありたいと強く思うこと。
  ・第三に具体的に考え、行動すること
  ・第四走りながら修正すること。
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今井先生の追憶(7)―現場に従事したころ― [祈り]

1993年1月、長年生活した東京での生活にオサラバし、岐阜県郡上郡八幡町(現在の郡上市八幡町、通称「郡上八幡」)に仕事の関係で生活の拠点を移した。それから6年半、1999年の春まで家族とともにこの地に暮らした。この時期は、私にとっても私たち家族にとっても大きな転換期であった。

建設現場の施工管理、引越し、転校、そして田舎暮らし・・・何もかもはじめての経験だった。

 

今井先生の大病、そして父の死・・・

 

つらい経験もあった。そのたびに今井先生とは、手紙を通して季節ごとにやりとりをさせていただいた。

 

 

                    93.12.18の消印

 前略
 郡上八幡の名はこの一年間に随分と知れ渡りましたね。
 多くの放送局で日本一の清流の元と宣伝されたからでしょう。
 列車で通過したことはありますが、滞在した事はありません。
 女房と旅行してみたい第一の処で、女房も時々この話を出します。
 しかし、列車に2時間以上乗ると体がどうにも仕様がなくなり
 そうですので、未だ未だ先のことになります。大兄がおられる
 間に行ければ最高だと思うのですが・・・。

 ところで、入院中アレコレ考えましたが、大兄の一家挙げての
 現場行は大兄にとり最高の選択だったと思います(3年はちと
 長いですが・・・)。

 人間は経験を真に深め、苦労の上に仕事を作り上げて来ると、
 自然とその人なりの風格というものが出来るそうです。都会育ち
 であり乍ら純粋さを有している大兄が子どもを育て乍ら仕事をして
 どういう風格を作り上げていくのか・・・大いに期待しています。

 長い人生の中の数年はたかが数年、しかし占める存在は夫々
 数十年・・・という生き方が出来れば最高!!
 八幡の名産品アリガトウ                 早々

 

 

                       ’94.7-19
 拝復
 ・・・・
 小生退院后初の夏であれこれとまどっています。
 日ざしの中を歩くとこたえる。少しゆっくりと思っていると
 急に冷たくなってまた出歩いて筋肉が痛む。
 クーラーの利いている処にいると腰から足の筋肉が硬直して
 勝手にアバレテこまる。夜は寝汗で2時間ごとに下着の
 オール取り替え。洗濯干しが忙しくなる!自分の身1つ
 世話を見るのも大変です。
 ・・・・                        敬具

 

 

                       ’94-12/4
 拝復
 ・・・
 小生この処風邪をこじらせてしまい、肺炎の軽いやつをやりました。
 微熱とだるさを我慢したのが悪かったようです。肺に胸水がたまり、
 かがむとせきが出たのですが、それにも気づかずうかつでした。
 やはり少しでも具合が悪くなったら医者に行くのが良いようですね。
 大兄をはじめ家族の皆々様にもご注意を。

 ・・・・

 毎日学校に行っていますが、厚木の家からは通い切れるものではな
 いということになり、現在の借家の近くの新築マンションを購入し、
 12月23日に移ることにしました。新年は新居ですが、引越しは
 くたびれるので困ります。
                             敬具

 

 

                     16 Dec.’95
 ・・・
 ところで、進化論のチャールズ・ダーウィンの「みみずと土」(確
 か評論社?)を読んでいますが、非常に面白い! 科学的なtrialと
 thinkingの原点だと言われるのも納得します。ファーブル昆虫記も
 面白いですが、矢張りレベルが違います。

 私は今、バングラデシュから来たD1の人と一緒に圧密の原理論を
 やっていますが、これまた実に面白くて色々な仮説の上での理論展
 開をやっています。その間に圧密に対する私の考え違い(大きな)
 が発見されたりして、赤くなったり青くなったり。圧密理論の本当
 の意味での体系化も夢ではないと考えるようになりました。
 ・・・・                        敬具

 

 

                 1996年3月23日(土)

  今井五郎先生

  拝啓
  一雨ごとに春らしくなり、桜の開花も間近い季節となりました。
  今井先生におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び
  申し上げます。

  郡上八幡での生活も早いもので3年が経過し、この3月14日に
  東海北陸自動車道・Hインターチェンジ工事も無事竣工を迎える
  ことができました。この3年間、小生にとって大変素晴らしい想
  い出を残すことができ、感謝しています。

  ・・・

  現場での生活はかなりハードでした。当初、小生は土工の担当で
  したが、1年目にジオテキスタイル補強盛土を用いた進入路の造
  成工事を手がけました。また、長良川の中洲に橋脚を建設するに
  あたり、締切工事の補助工法としてロックオーガー削孔工事を行
  い、玉石層や岩盤層の掘削に難儀しました。それから、本格的な
  切土工事に備え、斜面の各所に落石防護柵や網を設置しました。
  これらはすべて当JV(少々自惚れた言い方をすれば私の)提案
  工法が採用されたものです。

  2年目から現場は本格的土工事が始まりました。小生は今度は法
  面工事の担当となり、土質調査計画の立案、調査の実施、安定計
  算、特殊法面(グラウンドアンカーや鉄筋補強土工法)の設計、
  図面の作成、そして同工の施工計画や実際の施工管理に至るまで、
  エンジニアとしての研鑽を積むことができました。特に豪雨(台
  風)による被災や他現場での法面崩落事例を通じて、改めて自然
  力(特に水の力)の驚異を実感しました。また、工程調整のむず
  かしさを知りました。

  3年目は法面工とともに、工務関係の担当も兼ねることになりま
  した。工務の仕事は、役所との窓口業務が多く、雑用的な仕事が
  多いのですが、その中で設計変更の申請、工法変更にともなう書
  類・図面の修正、あるいは請負金額変更のための新単価ネゴとい
  った仕事にも携わることができました。特に今年に入ってからは、
  3月14日の竣工に向けての仕上げ段階に入り、最終の清算でて
  んやわんやの大忙しの状態が続きました。工事のほうも、今シー
  ズンの大雪の影響で、竣工検査直前まで最終仕上げがかかってし
  まい、最後はバタバタの状態になってしまいました。ともあれ、
  無事竣工を迎えることができ、ものづくりの感激を心から味わう
  ことができました。

  というようなわけで、今、ようやくホッと一息ついているところ
  なのですが、実は先生に改めて報告しなければならないことがあ
  り、この手紙をしたためている次第です。それは小生のこれから
  のことです。この次に小生がどこへ行くのかということです。

  実は、昨年暮れに同じ東海北陸自動車道のSインター工事を落札
  し、4月からはそちらへ行くことになりました。この現場は、こ
  こ郡上八幡から約50km北上した雪深い高地です。なぜまたそ
  んな山奥へという先生の声が聞こえてきそうですが、ご理解いた
  だきたく存じます。

  先生のお考えと違う方向へ小生が進んでしまうことをお許しくだ
  さい。

  ・・・

  4月早々にでも、一区切りついたところで、東京方面へ出かけよ
  うと考えています。そして、できればそのときに先生にお会いし
  て、お話ができれば幸いです。また、近々連絡を差し上げます。

  先生もどうかご自愛ください。ではまた。

                             敬具

 

 

                         27-March'96
  拝復
  貴君の考え方、行動に賛成します。
  また全面的に支援したいと考えます。

  横浜国大土木のことを考えると少々困ったなという面があります
  が、貴君はそれを気にすることはありません。小生の様にウジウ
  ジしていた人間にとって、貴君のように「生きる」ことはうらや
  ましい限りです。思う存分に自分の能力を発揮し、充実させて、
  生きることの喜びを創造して行かれます様、切望しています。

  先日、I氏が来室し、貴君が100周年記念レポートで特賞を取
  ったことを聞き及びました。小生の喜びがどれ程のものか、想像
  に難くないと思います。貴君は小生に喜びをプレゼントして呉れ
  たのです。今後も多くのプレゼント有ることを期待しています。

  今年度の私達の研究室は充実していました。優秀な学生が集まり
  すぎた嫌いはありますが、昨日の卒業謝恩会も実に好感のもてる
  進行内容で、教官連は満足していました。やはり、先輩の社会的
  活動のレベルが学生に反映していくのだなと思いました。

  とりあえず一言。立派に成長していますね。       敬具

 

 

                        5月7日’96
  ・・・
  さて、小生は、目下講義「土の力学」のテキスト作りに全精力を
  傾けています。新しい工夫を盛り込んでいて、今の処学生の評判
  は良いのですが、矢張り中味が高級すぎるようです。しかし、ま
  あいいやと思って書きたいことを一応整理して書きまくっていま
  す。その内コピーを送らせて貰いますので批判してください。
  ・・・

 

 

                      1996-7/20
  前略
  北見工大での研究発表会から帰宅した処、大兄からのまな板届い
  ておりました。開けたとたん桧のにおいが部屋に満ちて、連れあ
  いがすっかり悦んでしまいました。それにしても立派な板ですね。
  それに合わせて包丁を買い替えることにします(既に25年使い
  込んだので、お払いをして眠っていただきます)。

  小生お陰様にてすこぶる元気です。もっとも決して無理せぬよう
  に毎日を送っているからで、イザ!という時に無理が利くように
  している分けです。この1月の間に徹夜を2回やりましたが、大
  過ありませんでした。

  徹夜の原因は講義の準備で、「土の力学」と「地盤工学」が3回
  重なったためです。土の力学の方は全14章の内12章が終わり、
  夏休みにあと2章書きます。今年の3年生は明るくてよくまとま
  ったクラスで勉強もよくしていて、小生の講義(毎回30分のテ
  スト付)にくいついて来ています。テキストのワープロ打ちやテ
  ストの朱入れをしている助手の田端の話によると、そのクラスの
  トップクラスの学生がそろって地盤研入りを強く希望しているそ
  うです。真心込めた講義をすると(?)勉強を身につけたいと願
  う学生が必ずついて来るというのはどうやら本当のようです。

  来年度は楽しみではあります。もっとも出来すぎばかり集まると
  研究室としてはうまく行かないので、程々に玉石肴混が良いと思
  うのですが・・・。

  ところで・・・***(某会社)の中はいまひどい状態で、研究
  所自身の存在すら宙に浮かぶ体たらくだと聞いています。社風と
  いうのは恐ろしいもので、世の中が厳しくなると弱点が弱点を呼
  んで全体がおかしくなりかねないものですね。「物作り原点」を
  忘れた組織は瓦解すると考えるべきでしょう。

  北見の研究発表会で気付いたことがあります。今や主だった大学
  の研究者の圧倒的多数が理論の陥穽(かんせい)に入り込んでい
  て、理論通りにならない実験結果はおかしいと迄言い始めたので
  す。**教授は昔からそうでしたし、**もそうでしたが、**
  先生までもそういい始めたのには愕然としました。彼らは軒並み
  科学・技術の歴史を勉強していないのですね。「理論は人間が作
  った産物であって、理論が物を作った分けでない」という単純な
  真実を考えないし、その厳然たる真理を受け入れようとしない。
  これはもう傲慢以外の何ものでもありません。来る処まで来たな!
  という感じです。

  警鐘を鳴らす行動に立つか、ほっておくか、今迷っています。理
  論や構成式が物作りの道具であって、それ自身が超越存在でない
  ということを皆が納得する時が必ず来る分けですから、ほってお
  くのが、よかろうと思いますが、小生の研究室では小生の考えを
  強く堅持して学生を教育することにしています。その点でPが小
  生の考えを強固に実施していますので、安心しています。

  話は変わります。Kに子供ができたとのこと、嬉しいことです。
  土質研の卒業生が技術士になったとの知らせが増えてきたこと、
  これも嬉しいことです。各種委員会で教え子が同席し始めてきた
  こと、これも喜びのひとつ。どうも教師というのは、説教ばかり
  しているのですが、人間の成長を極端に喜ぶ人種のようですね。

  今年の夏は、連れ合いと下北の方に2泊3日で遊びに行きます。
  郡上はどうかと言ったら、あなたに迷惑をかけるから厭だと言っ
  ていました。小生が連れ合いの立場ならやはりそのように言うだ
  ろうと、納得しましたので、有難いお勧め失礼させて頂きます。
  悪しからず ご免。
                             早々

 

 

                          25 Nov.'96
  拝復
  ご尊父のご逝去 お悔やみ申し上げます。

  男にとって父の存在というのは複雑なものですが、この年になっ
  て、かつての父に似ている面が色濃く出てくるのに気づいて、愕
  然としたり、矢張りと思い当たったり、矢張り複雑な感じです。
  同じ男の立場がそうさせるのでしょうね。

  空気みたいな存在になって、いつの間にか居なくなっている、と
  いうのが一番良いのかも知れませんが、その様に生きるのは至難
  でしょうね。暫くの間はアレコレ考えることと思います。感傷的
  にだけはならぬように気をつけて下さい。        敬具

 

 

                          1997,4-30
  ・・・
  さて、私は本年就職担当でこの3週間9時から7時まで5分刻み
  で動きました。勿論土日なしですので、いささかくたびれました。
  私の学生時代の頃を思い浮かべ乍ら学生と対応しましたが、色々
  と考えさせられました。日本社会が激しく変わりつつある中で、
  若い人は何か展望を見い出せないようです。致し方ないと思いま
  す。人間はそんなに強い存在ではありませんからね。

  大兄はいつ頃東京に戻られるのでしょうか。

  納得のいく処までやられたら、東京に戻ってください。
  心強く思う人は私だけではないはずです。乞再会。    敬具

 

 

                     1999年1月24日
  拝啓
  岐阜県の山奥では、雪深いシーズンとなり、朝夕のスキー客がも
  たらす渋滞がうっとおしい毎日です。

  昨年末は小生の精神状態が不安定気味で先生に書状等を送る気分
  にはどうしてもなれませんでした。年明けを待って、心に余裕が
  できてからと思いつつ、今度は家の転居の問題や資格試験の受験
  (VEリーダー)、風邪ひきなどでとうとう今日までご挨拶が遅
  れてしまいました。このご無礼をお許しください。

  さて、先生にご報告したいことがいくつかあります。

  まず第1点は工事延期の件です。工事の方が今年の6月29日ま
  で延期になりました。小生の立場上、竣工までは異動はないと思
  います。竣工後の跡片付け含めて8月ぐらいまでは岐阜にいて、
  それ以降どこかに異動することになると思いますが、今のところ
  行き先は未定です。

  2点目は転居のお知らせです。現在の郡上八幡の住まいはこの3
  月で契約が満期を迎えること、長男の小学校卒業・中学入学を控
  えていること、遺産相続で埼玉に土地を持ったことなどがあって、
  埼玉への転居に踏み切りました。現在、家を新築中で2月中には
  完成の予定です。3月の末に引越し、それ以降現場を離れるまで
  小生は単身生活となります。

  3点目は小生の将来のことについてです。ここ郡上八幡に来て6
  年、高速道路工事に没頭しました。実は、小生自身には6年周期
  説というのがあって、これまで約6年ごとに自分の踏み込んだ世
  界が変化してきました。

  まず大学4年から博士3年までの6年間いわゆる研究の世界に身
  を置きました。そして、次の6年間建設会社の本社で設計業務に
  携わりました。さらにこの6年の現場の経験となったわけです。
  すると、次の行先について、そろそろ考えてみたくなるのです。

  まだ頭の中はほとんど白紙状態なのですが、この18年間をひと
  まわりとすると、次の6年が自分の方向付けの上で重要だと考え
  ています。その方向付けのイメージとして、いま2つのパターン
  が頭の中に浮かんできます。

  その一つは、より広い世界への展開です。グローバル化とでもい
  うのでしょうか。現在の建設業界の抱えている矛盾や問題点の解
  決に向けて、小生微力ながらもその一助を担いたいと思うのです。

  もう一つは、より深い世界の掘り下げです。今まで6年周期でそ
  れぞれの分野についてそれなりの成果をあげることはできました
  が、もう一歩踏み込んで、もっと言えばどっぷり浸かってより深
  く自分の考えを押す進めてみたいとも思うのです。それは、研究
  ・設計・施工のどの分野でもいえることです。

  この2つの方向性は一見全く異なるアプローチのように見えます
  が、その「融合」ができればいいなと思う今日この頃です。かな
  り欲張りな考えと思われるかもしれませんが、何かいいお考えが
  あれば教えてください。いずれにしても、夏までには次のステッ
  プへの方向づけを行うつもりです。

  関東地方の少雨がニュースで伝えられ、インフルエンザの流行の
  兆しがみえるようです。先生もお体にお気をつけてご活躍くださ
  い。ではまた近いうちに。
                             敬具

 

 

                      99.2.1の消印
  拝復
  大兄の懐かしい文字を目で追いつつ、むつかしい選択の時期に来
  ていることを自覚している大兄の気持ちを、自分の過去に重ね合
  わせて考え込んでしまいました。

  6年周期説には私も思いあたるふしがあります。卒業して母校に
  5年、五洋に7年、助教授として7年、入院まで7年でした。
  退院して人生観がかなり変わって今まる5年で、目下の処はるか
  昔の学習時代に戻りたい気持ちに駆られています。生まれ持った
  というか、天から与えられた本来の持味をようやく出せる時期に
  来たのかなとも思います。つまり余分のものを捨てた本来の自を
  地で出せそうな気分になっています。他から見ると、今まで以上
  に厳しくなると受取ると思いますが。

  それはともかく、8月まで郡上の仕事を仕上げる立場にあり、そ
  れが終了した暁には大きな選択をせざるを得ない状況にあること、
  そして大兄がより本質的な生き方を選びたいと願っていること、
  諒解致しました。また、何でも良いから深くどっぷりと生きたい
  という考えに大兄の真摯さを感じ、共感の念を覚えます。そして、
  そうであるならばその様な分野でも良いとも考えられます。

  しかし、40の手習いでは事は済みますまい。大体、どのような
  道でもその分野のプロが生きており、おいそれと同道できるもの
  ではありません。矢張り、これまでに培ってきた腕の力を発揮さ
  せる道でどっぷり深く、というのが最も良い選択だと思います。
  これまでの仕事の筋が厭で無ければ、の限りですが。

  ・・・

  これまでと違う一歩を踏み出すには、後楯があった方が良いし、
  とにかく踏み出すための直前の静止期間が必要です。そのために
  も、本社に戻ることが賢明だと考えます。・・・

  かなりトンチンカンなことを書いたかも知れませんが、要するに
  今までの疲れをとって一休止することが大兄にとって絶対必要だ
  ということを強調したいのです。意をお汲み取り下さい。

                             敬具

 

  IMG_4620.jpg 


 かくして、私は1999年10月1日。
 再び、本社勤務となったのである。

 

 

 

 


 ------------------------------------------------------------------
 <和尚のひとりごと>
   ★★★ 手書きの書状・・・懐かしい字体 ★★★

 <キーワード>
   ・人生観を共有する
   ・理論が物を作るわけではない
   ・6年周期説
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今井先生の追憶(6)―設計部在籍のころ― [祈り]

当時の私は設計部の所属。港湾施設の設計や施工計画の立案が主な仕事だった。また、技術開発なども一部手がけていた。その中のひとつのテーマが、港湾の埋立て計画に関するものであり、次のような内容のものだった。

ある発電所の専用港湾内に堆積する粘性土を定期的に浚渫し、沈澱池に投入する工事が計画・実施された。発電所ではタービンを冷却するため、大量の海水を取水する。港湾内の海水を取水すると、その流れに沿って、港の外側から海水とともに細かい粘土成分が湾内に流入する。その量が年間に数万立方メートルにも達するのだ。その堆積物をそのままにしておくと、湾内の水深が浅くなり、船の入港に支障が出る。そのため、定期的に航路維持浚渫が行われるというわけである。

先に記したように、この航路維持のための浚渫土は発電所構内に設けられた沈澱池に投入され、水を切って場外搬出をするという計画だった。その際、いかに早く水を切って浚渫土を場外に搬出するかが、ポイントとなった。というのも、構内の沈澱池の容量は限られるし、その沈澱池が満杯になってしまえば、浚渫はままならなくなる。航路が確保できなければ、発電に必要な原料を海路で持ち込むことができなくなり、発電所の運転はストップしてしまうのだ。まさに航路維持浚渫は、発電所にとってアキレス腱のような存在なのである。

この問題のなかで、沈澱池にどれだけの量の浚渫土が投入でき、また投入された浚渫土がいつ搬出できるような状態まで水が切れる(専門的には圧密される)のかを予測する必要があった。この問題の解決のため、再び横浜国大を訪れ、シミュレーションのための解析プログラムを開発することになったのである。

1988年から1991年頃の話である。

ベースとなる理論を今井先生からご教示いただき、それを個々の問題に当てはめて検討した。いくつかの試行錯誤の結果、実用にも十分に耐えうる解析プログラムを開発することができたのである。その解析コードは「CONAN」と名づけられた。その後、この「CONAN」による埋立解析手法は、他の港湾計画にも広く利用されるようになったと聞く。残念ながら、私自身は1992年の1月に設計部を離れ、岐阜県の山間で高速道路工事に従事することになったので、その業務にはタッチしていない。

当時は1・2ヶ月に1度程度、先生を訪ねて大学に訪れたと記憶する。この頃から、先生との打ち合わせは研究室で行い、その後早々に研究室を出て大学の近くにあるすし屋で一杯やりながら語り合うというのがパターン化した。すし屋のオヤジやお上さんとも馴染みになり、程よい酒の肴に舌鼓を打ちながら本当に楽しいひと時を過ごした。私自身もすでに社会人。先生と生徒という関係は卒業して、先生も一人のエンジニアとして接してくださったのが何よりもうれしかった。ただ、まだまだお説教調の話しっぷりではあり、師弟関係は学生時代のままだったが・・・

まずはビールで乾杯。そして、日本酒へ・・・
先生や助手の片桐さんと話をする間に、あっという間に時間が過ぎ去っていった。まさに至福のひとときだった。仕事上のトラブルや悩みについて相談にものっていただいた。「お前さんも、そんなことを悩むような技術者になったのか」なんて、妙なことで感心していただいた。
業務の進捗についても報告し、その成果に満足していただいた。今井先生のうれしそうな顔・・・ 大学に移って約10年ようやく本格的な研究に打ち込めることの喜びを心底感じているようだった。また、大学に移ってきたばかりの頃、大変苦労をされたという話も実はこの頃になって始めて打ち明けていただいた。
我々、当時の学生にはそうした素振りは何一つ見せなかったが、「大学に移ってきて5年間は全く自分の研究が出来なかった・・・」という言葉に、先生の口惜しそうな表情が滲んでいたことをいまも思い出す。

そして、
「研究でもプロジェクトでも同じ。大事な仕事に望むときこそ、あせっちゃいけないんだ。じっくり構えて、腰をすえて、機を待つ。必ずチャンスは訪れるから」
と自分に言い聞かせるように私につぶやいた。


この頃のことで、最大の想い出は、韓国での交流セミナーに参加させていただいたことである。当時の資料が私の書斎から出てきた。その冒頭に次のようなメモが記されている。

■韓日交流セミナーに参加して

 1991年8月21日から25日にかけての5日間、横浜国大
 土質研究室主催の「韓日交流セミナー・ツアー」に参加した。

 本ツアーは、今井五郎教授、プラダン助教授および片桐助手の
 3先生とその家族を中心に、大学院生と横浜国大に関係する社会人
 4名が加わる形で構成された。

 韓国では横浜国大に留学している趙さんとその両親、趙さんの
 大学の恩師である李先生、そしてその学生の方々の心温まるご厚情を
 賜った。

 一行は、ソウルとキョンジュ(慶州)にそれぞれ2泊した。

 ツアー前半のソウルでは、今井教授、プラダン助教授の「圧密と
 地盤改良」と題した講演を中心に交流セミナーが開催され、土質工学
 に関する技術交流を深めた。

 ツアー後半のキョンジュでは、大型バスを借りて各所に散在する名所
 ・旧跡を視察した。

 (中略)

 ツアー中には予期せぬハプニングも起きた。
 その一例をあげると以下のとおりである。

 1)集合時間に大幅に遅れ、みんなに迷惑をかけたK君。
   おかげで、飛行機の席はバラバラに。
   ただし、ビジネスクラスの料理にありつけたラッキーな
   人もいたが・・・

 2)台風により慶州1日目の予定は大幅に変更。
   台風を呼んだ平林君と西田さん。この二人は旅行のたびに
   台風来週に遭遇するとのこと。

 3)コンドミニアム内での望月と私のショータイム。
   台風というハプニングのなか、ほとんど病気の芸の数々を披露。
   参加者一同大笑いの一晩でした。

 4)慶州各所で神出鬼没したオヤジ
   このオヤジが慶州駅で現れたとき、九死に一生を得たとの思いが
   した。そのオヤジが大陸苑のお土産屋に現れたとき、ヤラレタと
   天を仰ぎました。

 5)韓国キムチ他、辛口自慢大会
   望月の激辛好きは、他の追従を許しません。
   アンタがイチバンです!

 腹の底から大笑いした楽しい旅だった。

kannkoku.jpg


その後、私が東京を離れたため、直接お会いする機会がめっきり減ってしまった。

そして、先生は肝臓の大病を患い、生死の境をさまよわれた。先生が少しでもお元気になるようにと、岐阜の山奥で取れた山菜や川魚など、季節のかおりを何度かお届けした。どうにかこの世に生還され、ホッと胸をなでおろした。と同時に、先生とのお付き合いももうアルコールは抜きにしようと思ったのもこのころのことである。


ところが・・・


この辺のところはまた次回にする。

 

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<和尚のひとりごと>
  ★★★ 黄金時代・・・ ★★★

<キーワード>
  ・エンジニアリング業務の日々
  ・すし屋「キクモト」での懇親会
  ・韓日交流セミナーの開催
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今井先生の追憶(5)―大学を離れて― [祈り]

大学院の修士課程は、またたくまに過ぎていった。そして、進路の問題では、今井先生から次のようなアドバイスをいただいた。

 「この大学院(横浜国大)で学んだことは、土質力学の入り口の
  部分。特に研究の分野では実験装置の整備も十分でない。
  本格的な研究を行うためにドクターコースに進み、みっちり
  土質屋としての素養を磨き、一流のエンジニアを目指しては
  どうか・・・」

 「今(1984年当時)は横国大には博士課程がない。また、同じ
  ところに永く留まっているとどうしても沈滞してしまう。
  大学院でみっちり勉強するなら、龍岡君(当時、東京大学生産
  技術研究所助教授)のところがいいだろう。あそこで、実践的
  な技術を学び、ドクター(学位)を取って、その上でコンサル
  タント会社に就職して実務の仕事に携わる。もちろん、美しい
  国土づくりのために・・・」

 「ただし、ドクターを取ったからといって、大学に残るような
  ことは考えるなよ。ドクターなんてのは、足の裏についた飯粒
  みたいなもんだ。とらなきゃ気持ち悪いし、とっても食えねえ
  からな・・・」

もともと、土木の道を選んだのは、国土建設という大きなモノづくりを通して社会貢献したいという漠然とした思いだった。地図に残る仕事に携わりたいという単純な達成感を欲していた。正直、大学に残って研究に没頭するイメージは、大学入学当初は持ち合わせていなかったのだが、今井先生という得がたい恩師とめぐり合い、自分の考えが大きく変わっていった。


研究や技術開発を通して社会貢献するのも悪くはない。
そして、そうしたスキルを身につけて就職するのも悪くない。
せっかくのチャンスだ、博士課程に進んでみっちり土質力学を極めてみるか・・・


こうして今井先生のアドバイスどおり、横浜国大を出て、東京大学生産技術研究所の龍岡先生のもとでさらに土質力学の研究を続けることとなった。

この3年間は、私の人生の中でもきわめて濃密な時間を過ごした時代だ。今井先生から指導教官が龍岡先生に変わり、その研究の中身、アプローチの方法、密度の濃さ・・・すべてが異なった。

井の中の蛙であることを思い知らされた3年間だった。
世の中には、とんでもなく賢い人間がいるものだと実感した。

それでも、どうにかこうにか、3年で学位を取得することができたのは、ときどき今井先生と学会などでお会いして、叱咤激励していただいたことが大きい。この3年間については、また別の機会に改めてじっくり思い起こしたい。


さて、博士課程を終え、いよいよ就職する段になった。

今井先生からは、地盤・地質関係のコンサルタント会社がいいのではないか、と言われていた。そこで、何人かのコンサルタント会社に就職された先輩方に意見を聞いてみたところ、いずれも否定的な答えが返ってきた。

端的に言えば、日本ではコンサルタント会社が活躍できる場が非常に限られている(ないといってもいい)。単なる人出しの人材派遣会社と同じだ。もし、エンジニアリングやコンサルティングの仕事をしたいのなら、ゼネコンにいくべきだ。ゼネコンは現場でものをつくるだけの単なる施工会社ではない。技術研究所や設計部もあるし、営業活動も広範にわたる。より幅広い経験を積みたいならゼネコンの方がいい。・・・と


こんな先輩の返答に私の心は揺れ動いた。

さらに、外国の大学に進むとか、大学に残って助手をしないかという話まで出てきた。このとき、学者として生きる道もあるのではないか、という考えが頭をよぎったが、やはり自分の能力では研究の分野において第一線で活躍することは難しいと判断した。

自分がもっと活躍できる場が、世の中に必ず存在する。

そんな世界を探してみたいと思った。


龍岡先生や今井先生からいろいろアドバイスをいただき、最終的に自分で決断したのは、ゼネコンへの就職だ。そして、縁あって五洋建設に就職することになった。

 

これは、何と言う縁だろう。五洋建設は今井先生が横浜国大に来る前に在籍されていた会社である。その今井先生と縁深い会社に入ったのである。1987年のことである。当時の配属先は土木設計部。そこで、発電所の外郭施設や港湾施設の設計に携わることになった。

そして、今井先生と一緒に仕事をさせていただくチャンスが再びやってくる。

それが、圧密解析プログラム「conan」の開発である。

 

縁とは、摩訶不思議な世界である。

 

余談ながら、21年前の1985年の8月12日。日航ジャンボ機が墜落して500人を超える乗客乗員が犠牲となった。この日のことは鮮明に記憶している。というのも、この日、婚約者(いまのかみさん)と今井先生のご自宅に挨拶に伺ったのだ。

快晴の暑い一日だった。

かみさんのことを今井先生は気に入っていただいた。(なぜか、先生はかみさんのことを「トロちゃん」と呼んでいた)

ただ、お寺の養子になるという話がでると、間髪いれずに「坊さんになるなんて直ぐに考えるなよ!」と釘を刺された、


日航ジャンボ機の墜落事故のニュースが流れるたびに、厚木に向かった小田急線のシーンが呼び起こされる。

 

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 <和尚のひとりごと>
   ★★★ 足の裏についた飯粒 ★★★

 <キーワード>
   ・土質屋として生計を立てよう
   ・研究者よりもエンジニアになろう
   ・コンサルタント会社ではなく、ゼネコンへ
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今井先生の追憶(2)―大学3年のころ― [祈り]

今井五郎先生の追悼記の第2回目である。


■大学3年生の頃(1980~1981年当時)


前回はその出会いの場面を思い起こしたわけだが、それからすぐに今井先生と親密なおつきあいをさせていただいたわけではない。大学3年になっても、あくもでも土木工学科の助教授と学生という一般的な関係でしかなかった。しかし、私の中では当時既にひとつだけ決めていたことがあった。それは、将来の卒業研究は、「土質」をテーマとして選びたいということであった。

今井先生の担当された土質力学の講義は、正直かなり難しかった。ひとつひとつのテーマの断片は、それなりに興味を覚えるのだが、土質力学という学問の体系が、他の必須科目だった材料力学や構造力学、あるいは水理学などと比べると判りづらかった。

それでも、今井先生という人物に何か惹かれるものがあった。

また、非常勤講師として講義をしていただいた、「土構造及び基礎」の龍岡文夫先生(当時東大生研助教授)、「岩盤力学」の奥園誠之先生(当時道路公団斜面試験室長)、「地質学」の池田俊雄先生(当時国鉄から長岡技科大教授に転任されたばかりだったと思う)の講義などは、具体的な事例が豊富で面白いと思った。特に、龍岡先生の講義には興味を覚えた。毎回、レポートが出され、それを解きながら解説を加えるという講義の進め方と、最新の技術エッセンスがそのなかにちりばめられていて面白かった。龍岡先生との出会いも私のその後に大きな影響を与えることになるが、これはまた別の機会に触れたい。

今井先生や龍岡先生という人物に対する憧れと土質力学(とその周辺の学問)の奥深さをこの頃特に強く感じていた。

そんななかで、私にとってはショッキングな出来事があった。
確か、大学3年の冬だったと思う。


大学4年での卒業研究を行うため、そろそろ研究室選びを行う時期にきていた。土木工学科の中でそうしたことを念頭においた(と思われる)説明会があり、その後、懇談会と称するバーベキュー大会が、学科内の中庭で開催されたのだ。先生と我々一期生が一堂に会してビールを飲みながら懇親する場であった。もちろん、私は今井先生のもとで土質を学ぼうとする志を既に強く持っていたので、すかさず今井先生に近づき、その胸のうちを打ち明けた。

すると、予期せぬ返事が返ってきた。

 「君は、数学的なセンスがいい。だから理論体系がしっかりしている
  水理研に行くべきだ。あそこには優秀な磯部先生がいらっしゃる。
  土質は混沌として難しいからね。あなたには向いていないと思うよ」

 ・・・

予想外の返事に返す言葉に窮した。それでも、

 「でも、私は土というものの性質にとても興味があるのです。
  是非とも、土質をテーマに卒研をやりたいのです!」

としつこく迫った。すると・・・

 「じゃー、勝手にどうぞ・・・」

????

私にとっては、なんじゃこりゃ??である。今井先生にはかなり親近感を持っていたので、私が土質研に行けば、大いに喜んでくれると思っていた。それがこのつれない態度である。まったくあてが外れてしまった。くそー、そんなこと言うんじゃ土質研なんか絶対に行くもんか! という考えと、逆にそんなことなら意地でも土質研に行ってやる!! という考えが錯綜して頭をぐるぐる駆け巡る。おまけにアルコールもどんどん体内を駆け巡る。当然、ヘベレケ状態に陥る・・・

そのおかげで、このバーベキュー大会では、泥酔してしまい、前後不覚の大荒れ状態になってしまった。何故か同級生の大谷君(もちろん男)と抱き合ってキスしあっていたことがこのときの記憶としてよみがえってくる。


そして、数ヵ月後、大学4年生になった。私は、やはり土質研を研究室として選んでいた・・・。

幸運なことに土質研はそれほど人気がなく、第一志望で土質研に入ることができた。土質研の学生は全部で7名。モッチン(望月)、ゴトチン(後藤)、社長(花田)、マイティー(井上)、ワカ(若林)そしてアンジー(私)。とにかく個性的な面々が集まっていた。

卒研写真.jpg


後になって、今井先生からバーベキューでの返答について種明かしをしていただいた。

 「お前さんは、最初から土質研に来ること判っていた。
  だから、それを確認したくてああ言ったのさ。
  本気で土質研に来る覚悟があるのかどうか、
  その覚悟を持って研究室にやって来い、そういう意味だよ」


・・・・一本やられた!


 「あのとき、お前さん以外の学生ともいろいろ話をした。
  一期生にはとても個性的な人物が多い。その中でもとびきり
  個性的なメンバーを研究室に揃えたかったんだ。
  どうだ、このメンバー、やったぜベイビーだろ!?」


今井先生の考えのもと、幅広い人材を研究室に集めることがその後の研究室の基本方針として明確になる。勉強の1番できるやつ。遊びの一番できるやつ。サークルで活躍しているやつ。できは悪いが、頑張るやつ。そんなメンバーを常々欲し、また獲得に努めた。だから、2期生の獲得のときには私やモッチンが2期生のトップの片桐君をまんまと土質研に引き入れたというわけである。これも今井先生の指示のもとに動いたということを今ここに打ち明けよう。

4年生になって、今井先生との濃厚なお付合いが始まった。本格的な薫陶の日々がこれから始まったのだ。

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<和尚のひとりごと>
  ★★★ 今井先生の手の内・・・ ★★★

<キーワード>
  ・勝手にしやがれ!
  ・じゃなくて、勝手にシンドバッド!!
  ・個性的な面々を集めることの意義~非線形性
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今井先生の追憶(1)―出会い― [祈り]

先週の土曜日には、その研究室の仲間が集まり、先生の思い出話に花を咲かせた。今井先生からの薫陶を受けたもの一人であることを誇りと思う。この集まりを通してそのことを改めて知ることができた。

お盆の時期を向かえ、先生への追憶がますます深まっている。

そんなわけで、このメルマガでしばらくの間、先生の想い出話を綴ってみたい。これは、あくまでも個人的な記憶をたどる旅である。先生をご存じない読者の皆さんには、全くつまらない話かもしれないが、その点はどうかご容赦願いたい。

さて、その第一回目は、今井先生との出会いについてである。

今井先生との出会いは、1979年。今から27年前まで遡る。前年、横浜国立大学工学部に土木工学課が新設され、その一期生として私は同大学に入学した。工学部は弘明寺から保土ヶ谷キャンパスに移転したばかりで、確か入学試験は弘明寺で受け、合格発表は保土ヶ谷キャンパスであったように記憶している。入学当時は、土木工学科の建物もまだなく、土木工学科の新設に奔走された井上先生や大蔵先生は、たしか建築学科棟に間借りしていたような状況だった。

dobokutou.jpg
 
          【土木工学棟(1980年頃)】


大学2年から専門課程の講義も少しずつ加わる中、「土質力学Ⅰ・演習」という講義のためにその教壇に立たれたときが、今井先生との最初の出会いだった。

1979年の春だったと思う。

いやもしかすると、もう少し遅れた夏ごろだったのかもしれない。五洋建設を退職され、横浜国立大学土木工学課の助教授として赴任されたばかりの頃である。その最初の講義が、土質力学Ⅰ・演習だった。当時、今井先生34歳、私はまだ19歳。これが運命的な出会いになろうとは、この時点では思いもよらない。

小柄な体格だが、眼光が鋭い。大きな縁取りメガネにときどき手をかけてちょっと鼻にかかったような声で、静かに「今井です」と自己紹介された。

第一印象は、ちょっと気障なインテリ先生かなと思った。どちらかというと、近づき難い感じを受けた。


そして黒板に向かって、その独特の字体で次のように記された。

「土質力学 Soil Mechanics」

土質という謎めいた響きと力学という学問がいかにも深みのあるもののように思えた。土質力学、土質力学と心の中でつぶやいてみる。うーーーん、なかなかいい響きだ。


教科書は山口柏樹先生の「土質力学・改訂増補」(技報堂)。それ以外に、

 ・Terzaghi&Peck(1948) "Soil Mechanics in Enjineering Practice"
 ・Lame&Whitman(1969) "Soil Mechanics"
 ・Scott(1963) "Principles of Soil Mechanics"
 ・最上武編者“土質力学”(技報堂)
 ・土質工学会“土質工学ハンドブック”
 ・最上武雄ら、“現場技術者のための土質工学”

といった本を推薦図書として挙げられた。(私の講義ノートより)

 

その第一回目の講義では、「土木工学における土の諸問題」がテーマとして取り上げられた。土の上、中(自然の地盤)、土を用いて(土を材料として用いる)そして土の掘削・支持という3つの観点からの工学的な問題を几帳面な素晴らしい絵を次々と黒板に描きながら解説を加えるという形で講義が進んだ。


講義の最後に次のような絵(フロー)を示された。


  Exploration(調査)⇒Data(データ)
    ↓
    ↓←Geology(地質学)
    ↓
    ↓←Soil Mechanics(土質力学)
    ↓
    ↓←Economics(経済学)
    ↓
    ↓←Experience(経験)
    ↓
    ↓←Enjineerinng Judgement(工学的判断)
    ↓
  Solution(解決)


そして、今井先生は次のように語った(と思う)。

土木の世界では、土の問題は切っても切れない難しい問題としてさまざまな場面で遭遇します。その問題解決のためにさまざまな学問や経験を踏まえ、あらゆる角度から吟味して工学的に最もすぐれた判断をくだして問題の解決にあたるのです。それが、私たち土木屋(civil Enjineer)の醍醐味です! それは、医者が患者をみて診断を下すのと同じアプローチです。君たちが一人前の土木屋になるためのひとつの学問として土質力学があげられますが、それだけでは問題の解決にはなりません。多くの学問を学びやさまざまな実務経験を経ながら一人前の土木屋に育っていくのです。


このようなニュアンスの言葉だったと思う。その今井先生の言葉に酔ってしまった。

すぐれたシビルエンジニアを目指そうと決めた瞬間でもあった。


【補足】
確か今井先生は、土質力学の講義以外にも、図学(製図)の講義も受け持たれていた。当時はまだCADなど馴染みもなく、手で図面を書くことが工学の基本であった。
この図学における今井先生の才能も見事だった。それはまさに職人技と思えるような、きりりと引き締まったメリハリのある図面を描かれた。私も今井先生には、クラス一番の出来栄えだと評価していただいたものの、先生の図面と比較するとその差は歴然としていた。先生の描かれる図面にはその後も常に魅了され続けたことをいま思い出したので、ここに記しておく。

    imai001.gif
     【土質力学Ⅰ・演習の宿題・・・今井先生の実筆】

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 <和尚のひとりごと>
   ★★★ 懐かしい今井節・・・ ★★★

 <キーワード>
   ・土質力学という響き
   ・エンジニアリングジャジメントの重要性
   ・ハンドブック・エンジニアになってはいけない!
------------------------------------------------------------------

 


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一皮剥けた!・・・か? [祈り]

マイ☆ブログなるものを購入した。
インターネットに接続していなくても
ブログの下書き作成ができるソフトだ。

これを用いれば、移動中の電車の中でもブログの作成ができる。
使い勝手もよく、とても便利そうである。

これで私のブログ生活が一段と
拍車がかかるかもしれない。

そのマイ☆ブログで作成したブログがこの記事だ。
(内容は少々重たくなってしまったが・・・)


自分の存在が軽視されている。
自分の考えが通らない。
自分の主張が、正当に評価されない。


そんなことを最近、頻繁に感じる。
強い憤り。
そして、葛藤の日々。


そんなことの繰り返し・・・


相手を許せない強い思いがわきあがってくる。
その一方で、どうしてもっとうまく、そして素直に、
自分の気持ちを表現できないものかとさらに落ち込む。

昨日もそんなことを感じるちょっとした事件があった。
あーあ、もういやだななんて思い、仲間に酒を誘ったが
これも断られた。

そうか、そこまで俺のことを無視するのか!!
とさらに落ち込んで帰宅し、酒をあおりながら
パソコンに溜まった1週間分のメルマガに目を通していると
偶然、次のメルマガに目が留まった。

今日のフォーカスチェンジ【941】踏み出すときなのかもしれません。

その中に、次のようなメッセージが記されていた。

でも、あなたがもしも、
幸福な人生を生きたいと
本気で思うなら、
今日は提案があります。

いつもの回路を使うのは
もうやめにしませんか?


相手を責める回路も、
自分を責める回路も、
あなたを幸福にしたことは
かつてなかったはずです。

何度繰り返してみたところで、
それは、幸福につながるルートには
なっていないのです。

あなたがこだわっている問題は、
たしかに、あなたにとって、
重要なことかもしれません。

でも、もしかしたら、
本当は、それを手放す時期に
来ているのかもしれませんよ。

そう、いまはまだとうてい
手放すことはできないと
感じている
こと・もの・ひとは、
かつては、たしかに、絶対に
必要な存在でした。

でも、もしかしたら、
いつのまにか、その必要は
終わっているのかもしれません。

終わっていることに気づかずに、
しがみついているだけなのかもしれません。


こころを静かにして、
自分に問うてみてください。

あなたにとって、そのこと・もの・ひとは、
本当に絶対に、必要ですか?

そんなにもあなたを幸福にしない
こと・もの・ひとを、あなたは
ずっと追いかけていたいのですか?


もしかしたら、いまが、
踏み出すときなのかもしれません。

あなたが勇気を出して、
新しい地平に目をやったとき、
そこはまだ雨模様かもしれませんが、
あとほんの少し先には、
晴れて虹がかかるかもしれませんよ。


顔をあげて、しっかりと
その新しい地平に向かって、
足を踏み出してみませんか。

足もとのあらたな大地を、
一歩一歩、いとおしむように
踏みしめていくんです。


一歩踏み出すごとに、
あなたの背中から、
あなたをしばりつけていた影が、
はがれ落ちていくことがわかるでしょう。

その影が、どんどん遠く、
薄くなっていくことを
あなたは背中で感じるでしょう。


振り向く必要はありませんよ。
それは、終わったものなんです。

しずかに、過去の大地に
眠らせてあげなさい。

あなたの前の、明るい虹を、
ただ見つめて進んでください。



読みながら、自然に涙が出てきた。
涙がとまらなかった。


もう、しがみつくことはよそう。


いくら軽視されても無視されてもいいじゃないか。
振り向くことなく、顔をあげて足を踏み出そう。


そこに一皮剥けた自分を見出すことができた。



平和は人類最高の理想なり [祈り]

ドイツの文学者 ゲーテの言葉だ。

平和とは絶対的な存在ではなく、相対的なものだと、
最近、つくづくそう感じる。

戦争のない世の中が平和だ、というのなら人類社会では
これまで一度も平和を経験したことがないことになる。

日本人も、戦後平和のありがたみを本当に噛みしめたという。
しかし戦後が50年を過ぎ、戦争経験のない世代が多数になる
につれ、平和ということを心から実感できなくなってしまった。

現在も、世界のどこかで戦争は収まっていない。
また、ちいさな争いごとやビジネスの上での戦争を含めれば、
むしろ戦争のない世界の方が少ないかもしれない。

だからこそ、そうした世界の中でも平和を
理想として求めるのだろう。

こころひとつで、戦争にも平和にもなる。

人間とはなんとも得体の知れない
不思議な存在である。


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眠れぬ夜 [祈り]

夜中、咳が止まらず、目が覚めてしまった。
外に出てみると、満点の星空・・・
風はそれほど強くないが、空気が凍てついている。

今年の冬の寒さは身にしみる。

今日はあの世に旅立った母の通夜。
これから長い一日が始まった。

眠れぬ夜には、部屋を暖かくして、
モーツァルトでも聴きながら本でも読もう。
そして内省の時間をもつことも必要だ。

こんな冷たい寒い夜だから、
こんな大事な一日だから、
今日という日を大切生きよう。

心に物なき時は、心広く体 泰(ゆたか)なり
――上杉謙信『名将言行録』

名言の智恵 人生の智恵―古今東西の珠玉のことば

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  • 作者: 谷沢 永一
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1994/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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母の死・・・歳々年々 [祈り]

昨年九月祖母が、
昨年末に恩師が、
そして今度は今朝、妻の母が
あの世に向けて旅立った。

年々歳々 花相似たり、
歳々年々 人同じからず。

身近なひとが、少しずつ
この世から去っていく。

いいようのない寂しさが
心を揺さぶっている。


順番といえばそれまでだが、
こうして順番待ちをしていると
自分の寿命についても頭をよぎる。


さまざまな記憶が走馬灯のように
頭の中を駆け巡る。


寒い、雪の一日である。

水墨画・年々歳々

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  • 作者: 中塚 沙甫
  • 出版社/メーカー: 秀作社出版
  • 発売日: 2004/11
  • メディア: 大型本

歳々年々想いあり

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  • 作者: 川野 重任
  • 出版社/メーカー: 家の光協会
  • 発売日: 1999/04
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