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忙中閑あり [関心事]

11月も今日でおしまい。

今日も現場でリサイクル材の実験に勤しんだ。
夕方から、東京に戻る予定があったのが、思いのほか早く
実験が終了したので、途中ちょっと寄り道をすることにした。

最終の目的地は、神楽坂。

普通なら、新杉田~横浜~東京~飯田橋~神楽坂という
JR路線をたどるところだが、それを杉田~三田~神保町~神楽坂という
ルートで行くことにした。

まず、新杉田から杉田まで徒歩で散策。

かつてこの杉田商店街は1度か2度訪れたことがある。
昔ながらの風景がいまだに続いており、なんとなく懐かしい気分。

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杉田といえば、ラーメン屋や中華料理屋が多いというイメージが私のなかにある。
なぜだがよくわからないが、そういうイメージが過去の記憶の中で刷り込まれて
いるのだ。

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約10分ほどで京急の杉田駅に到着。
快速電車が猛スピードで走りぬけてゆく。

駅前に行けばもう少し懐かしい記憶が甦るかと思ったが、
ほとんど記憶には残っていなかった。
ただ、町並みは昔とそんなに変わっていないようだ。


そのとき、私の記憶がようやく甦ってきた。
かつて、杉田を訪れたのは、いずれも夜。それも深夜。
そして、夜明かしして、仮眠して、朝この町を離れたということを。
だから、昼間のこの町の姿を知る由もないのだと・・・



京急から都営地下鉄を乗り継いで、神保町に着いたときには
もう夕暮れ。そこから神楽坂まで徒歩で約30分。
ここもかつて良くうろうろした界隈。

毘沙門天に着いたときには、すでにどっぷりと夜に浸かっていた。
明日から師走、日も短くなったと改めて実感した。

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B=f(E・P) [関心事]

今週はかなりのハードスケジュールだった。

横浜、埼玉を往復する生活の中で、栃木と東京にも足を運び、
夜は夜で連日の飲み会・・・

これじゃ体にいいわきゃないさ、
わかっちゃいるいけどやめられない。

それ、スイスイスーダラダッタ、スラスラスイスイスイ・・・
というわけ(笑)で、今日は休息日にした。

これまで溜まったメールやメルマガに目を通し、手帳に今週の行動
と来週の予定を書き込みんで、今日のビジネス系作業は終了である。


そして、このブログを書きだしたわけだが、今日は、昨日の電車
の中で読んだ本で面白いと思ったことを取り上げてみたい。

昨日の強風の影響で1時間程度が運転ストップしてしまった。
その中で読んだのは、次の本である。

人生五輪の書―船井流勝者への道

人生五輪の書―船井流勝者への道

  • 作者: 船井 幸雄
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1985/07
  • メディア: 文庫
 PHP文庫



この本の最後のほうで、今日のメルマガのタイトルにした

B=f(E・P)・・・顔形も性格も好みも環境で変わる

という話が出てくる。その部分を簡単に要約すると次のような
ことになる。

Bは、BEHAVIOR(行動)の頭文字であり、
fはFUNCTION(関数)の頭文字。
また、EはENVIRONMENT(環境)の頭文字であり、
PはPERSONALITY(個性)の頭文字である。

したがってこの式は、「人の行動はその人の環境と個性によって
決まる」ということを意味するものである。

これが心理学の最初で出てくる基本原則だそうな。

同じような環境で、同じような個性の人たちは、同じような行動
パターンをとるということである。

逆に言えば、同じような個性を持っていても、環境が異なれば、
その行動パターンも異なってくるというわけ。
その逆もまたしかり。

確かに、長年同じ会社で仕事をしたり、結婚して長年連れ添って
いると、個性は多少違っても、だんだん似たような行動パターン
になっていくことも感覚的にはよくわかる。

社風なんてのは、まさにこの典型といえるだろう。

それだけ人間の行動パターンは、環境に大きく影響されるという
ことである。

この本の中で、次のような記述がある。


 「ホモサピエンスが形成されたのが、大体十万年くらい前だが、
  その時はみんな同じ顔形をしていたと思われる。それが世界
  各地へ広がる間に、環境の変化を受けて、いろいろに変わって
  きた。

  天候の悪い欧州へ行ったのは色あせて白色人種になったし、
  蒙古系の人間は寒かったので鼻が高いと凍傷になるから
  低くなった。また足が長くても凍傷にかかるから短くなった。

  このような見方で日本人をみると。三千五百年前に大陸から
  入ってきた西日本人は、永い間大陸にいたので顔が丸い。

  しかし、エゾを含めて日本の先住民は、大陸が一番寒かった
  一万八千年前には大陸にいなかったのでほりが深い。したがって
  地方地方に特性があり、何人かの集団で出てくると姿形を
  みるだけでそれがどの地方の人かは完全に当る。

  また顔形だけでなく性格も環境によって変わってくる。
  たとえば瀬戸内に住んでいる人たちは、そううつ質、
  それに対して先住民系は分裂質が多い。

  そううつ質は外交的で政治家などに向き、分裂質は内向的・・・」


この部分を読んだとき、確かに思い当たるフシがあると思った。

私はあきらかに分裂質の内向的性格だし、あの人は・・・
そうそうあの人なんかはまさにそううつ系だななんて思いを
めぐらしてしまった。


我々、今に生きる人間も永い年月を経て環境の変化に順応して
きた過程がその資質や性格に如実に現れているといえるわけだ。

だとすれば、あまり急激な変化をいそぐよりも、永い年月を
かけた緩やかな変化こそが、より強い体質をつくるといえるの
ではないだろうか。

もっとも、突然変異なんてのもあるので、全てがそうだとは
いえないかもしれないが・・・


 B=f(E・P)


この式を身の回りの人間の行動パターンに照らし合わせてみると
とても面白いことに気がつく。

そしてそれをパターン化し、ルール化すると組織運営がもっと
スムーズに行くかもしれない。

もちろん、家族にも当てはめることができそうだ。


そんなことを考え、頭をリフレッシュしている。





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<和尚のひとりごと>
  ★★★ 人間の不思議な行動パターン ★★★

<キーワード>
  ・環境が行動を変える
  ・個性は行動に表れる
  ・環境の変化を楽しもう
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頭のいい人、悪い人 [関心事]

今週も西に東に奔走した。そして、多くの方と出会い、また酒を酌み交わした。いまこうしてこの一週間を振り返ってみると、月曜日あたりの出来事が、遠い過去のことのように思えてくる。

実は月曜日にある会議に出席したのだが、その会議に出向く途上で、偶然、昔お世話になったO先生にばったりお会いした。聞けば、O先生も同じ会議に向っているところだという。それでは、ということで同行させていただいた。

O先生は、まもなく還暦を迎えられる。

思えば、今から20数年前にO先生とはあるセミナーで同席させていただき、そこでいろいろかわいがっていただいたのがお付き合いのはじまりだった。そのセミナーには、「若手」という名前が付いていた。私はまだ20台前半、O先生もまだ30台中盤だった。

・・・


今日は、O先生の話ではない。


先生とお会いしたことがきっかけとなり、先生にお会いした頃に読んだ本を読み返してみようと思ったのである。そのことについて記したい。O先生にお会いした次の日(火曜日)に愛知に出張した。往復の新幹線の中で、読んだのが岩波文庫の寺田寅彦随筆集。その第四巻のなかに収録されている「科学と文学」「科学者とあたま」を改めて読み返して多くの気づきがあったのだ。

寺田寅彦随筆集 (第4巻)

寺田寅彦随筆集 (第4巻)

  • 作者: 小宮 豊隆, 寺田 寅彦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1963/01
  • メディア: 文庫



頭の中でヒットし、アンダーラインを引いた部分を以下に少し引用する。


 

 【科学と文学】より

   言葉をなくすれば思惟がなくなると同時にあらゆる文学は
  死滅する。

  科学というものの内容も、よく考えてみるとやはり「言葉」
  である。

  研究の結果をちゃんと書き上げみがきあげてしまわなければ
  その研究が完結したとは言われない

  ほとんどあらゆる種類の文学の諸相は皆それぞれ異なる形に
  おける実験だと見られなくはない。

  文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物
  の記録でなければならない。また、逆にすべての真実なる
  記録はすべて芸術である

  ふたつ(科学と文学)の世界はもう少し接近してもよく、
  むしろ接近させなければならないように自分には思われる
  のである。

  文学者は科学者以上にさらにより多く科学者でなければ
  ならない

  科学者の考え方は唯一無二のものではない。
  また科学者の成しうるすべては、ただ可能性の指摘
  あるいは暗示である。

  科学者が自分の体験によって獲得した深い知識を、かみ砕き
  かみ締め、味わい尽くしてほんとうにその人の血となり
  肉となったものを、なんの飾りもなく最も平易な順序に
  最も平凡な言葉で記述すれば、それでこそ、むつかしい
  ことをやさしく、ある程度まで正しく理解すると同時に
  無限の興味と示唆とを受けるであろう

  科学というものは結局言葉であり文章である。
  文章の拙劣な科学的名著というのは意味をなさない
  ただの言葉である

  何度繰り返して読んでみても、何を言うつもりなのか
  ほとんどわからないような論文中の一節があれば、
  それは実はやはり書いた人にもよくわかっていない、
  条理混雑した欠陥の所在を標示するのが通例である。

  これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所が
  あれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように
  会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。




これらの文章に触れたとき、私は改めて「自然体」とはこういうことではないのかとの思いに至ったのである。もう一度原点に戻って、自分の体験を血肉化し、それを自分の言葉として流れるように言語化する鍛錬をしようと心に誓った。

 

 

 

 手元にある寺田寅彦随筆集は、1984年5月20日第44刷発行となって
 いる。ちょうど恩師の今井五郎先生やO先生に憧れ、科学者を
 目指して学問に打ち込んでいた頃に手にした本である。

 上記の言葉が、こうした諸先生方の言葉とラップして、
 私の心に突き刺さった。

【科学者とあたま】より

  頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。
  その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で
  考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」
  かのように考える恐れがある。

  頭のいい人は恋ができない。恋は盲目である。
  科学者になるには自然を恋人としなければならない。
  自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。

  頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。
  すべての行為には危険が伴うからである。
  けがを恐れる人は大工にはなれない。
  失敗をこわがる人は科学者になれない。
  科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた
  殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。
  一身の利害に対して頭が良い人は戦士にはなりにくい。

  頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は
  先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を
  自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうして
  ただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて
  科学者になれるのである。

  しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。
  やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでも
  ないことである。

  つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
  頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な
  科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が
  人間の智恵のすべてであるもののように考えることである。

  理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のよう
  に思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げない
  としても、認識の人であるためには少なからざる障害となるで
  あろう。



 

 これもひとつの原点回帰なのだろう。

 

 

 やはり私は科学者でありたいと思う。

 

 

------------------------------------------------------------------
<和尚のひとりごと>
  ★★★ 失敗をこわがる人は科学者になれない ★★★

<キーワード>
  ・言葉は言霊
  ・自分の言葉
  ・原点回帰
------------------------------------------------------------------

 


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サムライでなかったワールドカップ・ニッポン [関心事]

今日も早朝から焚き火生活である。



ついでに言えば、今朝は8時から3ヶ月に一度の地区内のどぶ掃除の日でもある。いろいろ行事の多い日曜日の朝である。

先週はワールドカップの一次予選で日本がいいところを発揮せずに敗退してしまったニュースを各メディアが取り上げていた。番組の多くは、日本の選手は良く頑張ったが、あと一歩及ばなかったという論調だ。しかし、私はどうしてもそうは思えない。日本のふがいなさがいたるところで目についた。実力の差が大きく惨敗だったというのが誰が見ても公平な評価だろう。

いろいろな考えはあるだろう。地元に有利ということはまず間違いない。今回はヨーロッパ各国の活躍が目立っているのは確かだ。前回の日韓同時開催のワールドカップで日本と韓国が決勝トーナメントに進めたのは、やはり地元の利を生かしたともいえる。ただ、それだけではないのも事実だ。オーストラリアの活躍や常勝ブラジルの圧倒的な強さ、アルゼンチンもまたしかり。

監督の指導の問題も一部では指摘されている。ジーコ監督は、選手の自主性を重んじすぎたと・・・。これも確かに一理ある。テレビを見ていて、オーストラリアやブラジルに次々と得点を許してしまったとき、川口や中田以外の各選手の茫然自失の表情がなんとも印象的だ。

「俺たちはどうすればいいのだろう???」

そんな不安げな表情がテレビいっぱいに映し出されていた。これは、ジーコ監督の思惑とは大きく異なったシーンだったのだろう。ただ、やはり最後は日本人としてのサムライ魂みたいなものが選手に宿っていなかったのはないかと疑いたくなる。サムライ・ジャパンなんて名売ってマスコミがちやほやしたが、実際のところ自らの意思で試合をリードしていこうという気概に欠けた日本。そのように私の目には映った。技術とかテクニックとか、もちとんそういう話もあるのだろうが、そのベースにある基本的な精神力で日本は一歩も二歩も世界に及ばなかったような気がする。

サムライなら、死を恐れず、最後まで自らの意思を貫き通して欲しかった。そして、結果はどうあれ、死力を尽くし、堂々と胸を張って、あるいは潔く切腹して欲しかった。そんなさわやかさを残して大会を後にして欲しかった。そういう意味では日本より韓国の方がよっぽど潔い。天晴れである。同じ一次予選敗退とはいえ、内容やその態度に雲泥の差がある。

マスコミやサポーターももっと是々非々をハッキリすべきだ。
・・・・
おっと、そろそろ行事の準備の時間だ。


朝から、ちと興奮してしまった。今日はいろいろ忙しいのでこのぐらいにするが、要するにワールドカップに垣間見た日本人の弱い部分、それを他山の石とせず、自分の問題として捉えなおしたい。これが今朝の新たな決意である。


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パニックに弱いシステム・・・日本のシステムは大丈夫か? [関心事]

東京証券取引所の取引停止。
またしても日本の技術システムの信頼を失う事件が起きた。

JRの脱線事故、耐震偽装問題、そして今回の「ライブドアショック」・・・
これまで信頼性の高さを誇ってきた日本のシステムは、どこへ
行ってしまったのか・・・

今回の東証の取引全面緊急停止の問題でも、
「ライブドアショック」という想定外の出来事に連動して
発生している。

いわば、想定外の突発的なパニックに対して、弱さというか
脆さを露呈するのが最近の日本システムダウンの特徴だ。

このブログでも何度も触れているが、完璧なシステムなんて
ありえない。時代の変化やニーズの変化に応じて、システムは
更新を繰り返さないとどんなに素晴らしいシステムでもやがては
陳腐化するのだ。

こうした問題が発生すると、「二度とこのようなことが起きないように
システムを徹底構築する」とか「二重、三重のチェックを」みたいな
話になる。でも、それは「完璧な」システムの構築を目指そうとする
硬直化した道を選ぶことになりかねないと危惧する。

原子力発電所のシステムでは、最悪の事態を想定して、確かに
二重、三重の安全対策が採られるのはよく知られている。
いわゆるフェールセーフという考え方だ。

もちろん、ベースにはどんなことがあっても危険をゼロにすることは
できない。限りなくゼロに近づけようとするのが本来の工学の
あるべき姿である。

すでに触れたがこうした問題に直面するたびに、最近のシステムダウンの
脆さが気がかりだ。繰り返しになるが、完璧を目指した脆いシステムよりも
不完全ではあるが、だましだまし使える粘り強いシステムの構築を
目指すべきではないか。

我が家のパソコンも昨年来、システムの更新を繰り返し、ほぼ
windows98からXPに、そして有線から無線LANのシステムへの
移行が整いつつある。自宅と会社のシステム環境が整ったおかげで、
先日のブログでも書いた「skype」の利用も可能となったわけである。

とにかく、「脆さ」ではなく、「粘り強さ」・・・
これがシステムに求められるキーワードではないだろうか。


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天災は忘れた頃にやってくる [関心事]

6433人の犠牲者を出した阪神大震災が発生して、11年になる。
11年前、わたしは岐阜県の郡上八幡に家族とともに暮らしていた。
あの日は今日と同じように早出の日で、5時に起床し、
朝のあわただしいひとときを過ごしていた。

そして、突然の縦揺れ。

グラグラというよりは、ズンズンと突き上げるような揺れだった。
関東地方と違い、この地方ではあまり大きな揺れを感じることが
なかっただけにびっくりした。
テレビを見ていると、関西で大きな地震発生のニュースが流れていた。

いつものように家を出て、現場でラジオ体操と朝礼をしたあと、
事務所に戻ると、地震による被災状況が徐々に明らかになってきた。
大変な事態になっていることを知ってたのはこのときだった。

天災は忘れた頃にやってくる。

日本は自然環境に恵まれている半面、地震、火山、津波、台風と、天災
もまた多い。そのことを強く警告した物理学者・寺田寅彦の有名な言葉
である。

『寺田寅彦随筆集』(小宮豊隆編、岩波書店)は、わたしの科学する
こころの旅を誘うきっかけとなった思い出深い本だ。

寺田寅彦随筆集 (第1巻)

寺田寅彦随筆集 (第1巻)

  • 作者: 小宮 豊隆, 寺田 寅彦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1963/01
  • メディア: 文庫

いまでもときどき読み返したりしている。
このブログも寺田寅彦のような随筆を将来的に書いてみたいとの
想いから始めたといってもいい。それが、長い間の夢だった。

東海地震や首都圏での直下型地震は、いつ起きてもおかしくない
といわれている。埼玉に住み、実家は東京という私は防災の意識を
いっそう高めねばならない。

今日はこれから現地調査である。


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原始時代に戻れるか [関心事]

わたしは、長い間建設事業に関わってきた。

事業をとおして環境問題と対峙する場面も数多く経験している。
昨今では、環境問題に対する取り組み方もだいぶ様変わりしてきた。
しかし、基本的な私のスタンスは以前とちっとも変わっていない。
そのスタンスを紹介しよう。

 第一に無計画・無秩序な開発は行わないことである。
 言い替えれば、開発か保全かの線びきをきちんとする
 必要があるということである。

 また、その判定にあたっては、地球における自然や資源の有限性を
 考慮に入れ、広範囲にわたる調査を実施して総合的に評価することが
 望ましい。

 第二に開発行為が自然に与えるダメージの大きさを調べ、
 必要に応じてダメージが少なくなるような計画変更をフィードバックが
 できる体制をつくることである。

 すなわち、地球のホメオスタシス機能が維持されていうるかどうかを
 確認しつつ、開発を進めていく必要がある。

 第三に環境破壊の発生を抑制する上で効果的と考えられる対策が、
 省エネルギー化、有限な資源の有効利用あるいはリサイクル利用である。

 開発事業においても極力技術開発を図るなどしてこれらのことに
 対処する必要がある。

 第四に自然環境の復元が今後の建設事業の中で大きく展開する
 のではないかと考える。人工干潟・人工海浜の造成や河川における
 多自然型建設工法の適用など、すでにいくつかの事例があり、
 この傾向を示すものとして注目される。

 古くから自然とつきあってきた技術者がその経験を生かし、
 より自然に近い環境を創造することが、これからの開発に
 求められるであろう。

これは、いまから10年以上前に書いたメモ書き(技術士受験のために
準備したもの)からの引用である。いまでもそのまま使えそうな内容である。

このメモは、つぎのような形で最後を締めくくっている。

 特に、自然の恵みを生かしつつ風土条件にあった社会基盤をつくるために
 それぞれの地域の歴史、環境、人間の営みをよく理解することが重要だ。
 そして、資源も自然も地球という有限の資産として認識されたいま、地球の
 基盤としての環境と開発の全体的調和を保ちつつ、よりよい社会をつくって
 いこうとする態度が何よりも大切であると考える。

 地球環境問題がクローズアップされるなかで、一切の開発を否定する声も
 上がっている。しかし、先にも述べたように人間生活そのものが一つの
 開発行為であり、開発行為の否定は人間活動の否定を意味することになる。

 また、人々も生活に不便な原始の自然を望んでいるわけではない。
 このことを常に念頭において、よりよい生活空間を創造する技術者として
 の誇りをもってものづくりに励み、後世にその技術・伝統を伝えたいもの
 である。

自然体宣言の原点・・・10年以上前の自分の論文に見いだした次第である。


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「新月の木」の不思議 [関心事]

今朝(早朝3時)に目が覚め、外の気配を確認する。
風が強い。冷たい北風が吹いている。
日本海側や東北地方では大雪&大荒れの気配だ。

ここ埼玉では一点の雲もなく、見事に晴れ渡っている。
天空には、ひしゃくの形をした北斗七星が輝いている。

今日は、月は見当たらない。
そう思って、月の暦を調べてみると・・・
やはり新月の夜であった。

2年ほど前、ある方からの紹介で、
『木とつきあう智恵 トーマ,エルヴィン【著】・宮下 智恵子【訳】』
という本を購読した。原書名は『…dich sah ich wachsen :Thoma, Erwin』で、
ドイツでベストセラーになった本の邦訳である。

木とつきあう智恵

木とつきあう智恵

  • 作者: エルヴィン トーマ
  • 出版社/メーカー: 地湧社
  • 発売日: 2003/05
  • メディア: 単行本


実に面白い本だった。昔、いろいろなところで紹介したので、
そのデータベースを頼りに、改めて新月の深夜にこの本について
ここに記すことにする。

正しい時期(真冬の新月の夜・・・まさに今日!)に伐採された木から
製材されたムクの木材(これを「新月の木」と呼んでいる)は、
化学薬品や化学合成の塗料を使わなくても、居間の床材としては
もちろんのこと、住宅全体に使用することができるというのである。

だから、シックハウス問題を回避することができる。
この、新月の木は、浴室の床にさえ利用できるという。

真冬の新月の夜伐採した木材を、枝葉を払わないまま谷底に向け、
夏を過ぎるまで放置しておく。すると、そのまま製材できるほど
乾燥が進み、最適な建材となる。

その理由は、切り倒された木が子孫を残そうとその枝葉の先にまで、
栄養分や水分を送るため、乾燥が充分に進むのではないかという。

まだ未解明の点もまだ多いが、チューリッヒ大学でその効果は実証され、
今ではオーストリアの営林署も、「新月の木」かどうかを、木材の証明書に
明示するようになっているそうだ。

「新月の木」の特質とエピソード、化学物質にまみれた現代社会への
批判等など。ときには科学的に、ときには哲学的に展開されているので、
読み物としも堪能できる。

たとえ「新月の木」が懐疑的であったとしても、自然との関わり方を真摯に
呼びかける著者の考え方には、共感できる。エコロジーの不思議を問いかける
素晴らしい本である。

新月の日は、要注意日とも言う。
月の及ぼす影響は、もしかするととても
大きいものなのかもしれない。

今年も今日でおしまい。
今年の総決算をいまから行おう・・・


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規制緩和と安心・安全の問題(2) [関心事]

前回、このテーマでブログを書いた。
要するに、安全・安心の問題を解決するために、
規制緩和を緩める流れに歯止めがかかってしまう
ことを懸念する内容だった。

たまたま次の本を読んだら、それに関連する内容の
ことが書かれていた。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方

  • 作者: 山岸 俊男
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1999/06
  • メディア: 新書

本書は、信頼社会と安心社会の違いを明確にし、
これまでの村社会的安心社会から都会的な信頼社会への
構築のあるべき姿を描いたとてもユニークな本である。

著者の膨大だと思われる実験結果に基づきながら、
ほとんど数式を全く使わずにわかりやすく解説しようとしている
試みがなされている

面白い本なので、もう一度精読してまた紹介したい。


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規制緩和と安全・安心の問題 [関心事]

最近、暮らしの安全・安心が脅かされるような問題が
国内外でいくつも勃発している。

BSE狂牛病の問題
大地震や大津波の発生
ハリケーンや台風の襲来
JR西日本の列車脱線事故
アスベスト健康被害の発覚
そして、ここにきて大問題となっている「耐震強度の偽装問題」。

安全・安心だったはずの日本の信頼性が大きく失われてきている。

これまで信頼性の高いと信じられていたシステムの欠陥が
次々と露呈している形だ。

たぶん、こうした問題はまだまだ目に見えていない部分が
多いのだろう。まさに氷山の一角があらわれたにすぎないと
思うほうが無難だろう。

自分たちの携わっている仕事の中でも、
ホントにこんなことでいいのだろうか?
なんて思うことにしばしば遭遇する。

経済性の追求、行き過ぎた競争主義や成果主義が
多くの企業や人びとをモラルハザードへと追い込んでいる
のだろうか・・・

もっと早く、もっと安く、もっと良く・・・
人びとの欲望はとどまるところを知らない。

いつから、この国はおかしくなってしまったのだろうか?

いや、昔からおかしい人間はいた。
未成年者の誘拐殺人事件もあったし、
詐欺や強盗、それに八百長なんてのもざらにあった。

でも、国家の屋台骨というか、全体システムとしては
それなりにしっかりした体制が構築できていたように思う。
それが、ここにきてすっかりダメになってしまった。

耐震偽装問題、みずほ証券の株誤発注問題、幼女殺人・・・
いずれも根っこのところは同じだ。

それは、世の中の変化に社会システムや人間教育が
追いついていないことに大きな原因があるのだ。

もう、古くて使い物にならないシステムを無理やり使っているから、
その歪みが弱い部分にしわ寄せとしてあらわれてしまうのだ。

社会が大きく変わろうとしている時期だから、こうした社会現象は
ある程度しかたがないのかもしれない。

ただ、腐ったところの膿みは、すっかり出してしまわないといけない。
放っておけば、システム全体が朽ち果ててしまうことになるだろう。

でも、勘違いしないでいただきたい。
こうした安全・安心を確保するためと称して、規制緩和の方向をやめ、
取り締まりを強化するという方向に向かっても決して問題は解決しない。

行政にすべてを委ねることが解決の道筋ではない。
これが私の意見である。

問題は、すべてのヒトの心の中に内在しているのである。
だから、ヒト任せにしないで、自分自身の内なる精神を強化する
ことが、いま必要なのである。

姉歯元建築士は、「弱い自分」がいたことを認めている。
そうなのだ。弱い自分から脱却させる手立てを揃えることこそ、
それを直ちに実行すべきじゃないのか。

 コストダウンを強要するのも人間。
 もっともっといい暮らしがしたいと思うのも人間。
 美味しいモノも安く早く手に入れたいと思うのも人間。
 できるだけ簡単にお金儲けをしたいと思うのも人間。 

結局、自分で自分の首を絞めているのが
今の社会システムの構図なのだ。

だから、あえてここで訴えたい!

規制緩和をどんどん推し進め、自己責任のもとで
自ら判断できるような精神性を高める人間を育てる。

足るを知り、もっともっとの欲望を抑え、共生の素晴らしさ、
ありがたさを知る人間に育てる。

そして、努力すれば報われる社会、努力しなければ
報われないシステムを構築する。

これこそ、いまの社会を救う処方箋だと思うのである。

 

安全と安心の科学

安全と安心の科学

  • 作者: 村上 陽一郎
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2005/01
  • メディア: 新書


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