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善玉vs悪玉の構図 [関心事]

 


 今日で3連休もおしまい。

 とはいっても、休みの日でも仕事に明け暮れる私の生活では、
 世間の連休レジャーモードは遠い世界にある。

 が、何といっても休日は、電話によるアクセスがほとんどない
 のが何よりうれしい。

 その対応がないので、平日受けているストレスの
 半分以下という感じだ。


 さて、今日も読書タイムを普段より多めにとって、
 頭をリフレッシュした。


 今回読んだ本の中で、一番頭の中を刺激してくれた本は、
 これである。

出現する未来 (講談社BIZ)

出現する未来 (講談社BIZ)

  • 作者: P. センゲ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/05/30
  • メディア: 単行本


 内容の詳細には触れないが、普段漠然と感じている
 現代社会の疑問や不安、あるいは将来展望に新たな光を
 投げかけてくれる一冊である。


 この本の後半部分で、興味深い会話が載っている。

 「不安が多い時代には、単純なお話に飛びつきたくなる
  のが心配だわ」

 「善玉と悪玉という単純なお話を信じれば、目先の不安は
  和らぐかもしれない。でも、単純化し過ぎた物語ほど、
  今の私たちにとって危ないものはないわよね」

 この一節を読んだとき、ふと最近、話題になっている
 二つのニュースのことが頭に浮かんだ。

 それは、このところ世間を賑わせている、
 事故米の不正転売問題と大相撲の大麻問題である。

 事故米を不正転売した三笠フーズや
 大麻検査で陽性の判定が出た露鵬や白露山に
 世間というか、マスコミの集中砲火が浴びせられている。

 これでもか、これでもか、とバッシングされている。

 まさにバッシングされる側は全くの悪玉。
 それに対してバッシングする側のマスコミや消費者は
 全くの善玉。


 世の中、そんなに単純な構図なのだろうか。。。


 こんな善玉と悪玉の単純なお話ですましてしまうことの
 方が遥かに問題ではないのか。

 そんなことが頭に浮かんできた。


 なぜ、不正転売や偽装問題が繰り返しマスコミの話題を
 賑わすのか?

 なぜ、大相撲の不祥事がこれでもかこれでもかと
 とりざたされるのか?


 こうした問題を煽る背景にある社会や環境の変化こそ、
 私たちは恐れなければならないのではないか。


 この最近のお決まりのこのパターンは、中世の魔女狩りを
 連想させる。


 出現する未来は、私たちの考えや行動に委ねられている。

 であるなら、魔女狩りの呪縛から解き放たれるように、
 自らを律する必要があるのではないか。


 この本から、学ぶべきことがたくさんあるように思う。

 

 

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 <和尚のひとりごと>
   ★★★ 変化のために重要な点はただひとつ。
                  人の心を変えることだ ★★★

 <キーワード>
   ・全体から見る
   ・心で見る
   ・手放し、受け入れる
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ウェブは自ら助くる者を助く [関心事]

 

 今日は梅田望夫の
 「ウェブ時代をゆく――いかに働き、いかに学ぶか(ちくま新書)」
 という本を読んだ。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)

  • 作者: 梅田 望夫
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/11/06
  • メディア: 新書

 梅田氏は、「ウェブ進化論」以来のファンなのであるが、今回の
 「ウェブ時代をゆく」は、その上をゆく強いバイブレーションを
 感じた名著だ。

 「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」「フューチャリスト宣言」を経て、
 「ウェブ時代をゆく」で梅田氏は確実に進化した。

 今日の午前中、短期間で読み通したので、詳細なフレーズチェック
 はこれからの作業となるが、その終章のタイトルが・・・

 

  ウェブは自ら助くる者を助く

 

 うーーん、先週のこのメルマガで、サミュエル・スマイルズの
 「天は自ら助くる者を助く」という言葉を引用したばかりなので、
 何かのシンクロニシティを感じずにはいられない。


 この本は、そのタイトルが示すようにウェブ2.0以降のことを念頭に
 書かれた本なのだが、その本質はインターネットやウェブに留まら
 ない。

 これからどう生き、どう働くのかという人生観に直結している。
 そこに示された深い洞察が、私の心を強く揺さぶるのだ。

 同世代の人間として、彼の人生観に「ブラボー!!」と
 心から拍手を送りたい。そんな気持ちになる本である。

 

 「リアルの世界」と「ネットの世界」を行き来することで、
 より良く生きる可能性が高まり、選択肢が増えるという。

 ただ、忘れてはならないことは、「ネットの世界」は「リアルの
 世界」以上に、「自助の精神」が必要だとということ。

 「自助の精神」に基づく「勤勉の継続」が、リアル世界以上に
 求められるという主張を肝に銘じたい。


  ウェブ進化の初期に現れた新しいタイプのリーダーたちに共通する
  のは、「自分が好きなこと」「自分に向いたこと」「自分がやりた
  いこと」を対象に「勤勉の継続」が自然にできる人たちであった。

  強いられて行う「勤勉の継続」とは決定的に違って、志向性と自発
  性と能動性がすべての始まりだから、彼ら彼女らにとって、勤勉は
  苦しみではなく楽しみなのである。


 私は、ウェブ進化のリーダーではないが、この考察に強く共感する。
 実はこの次のフレーズにもっと強く共感したのだが、そこは各自で
 この本を購読して確かめていただきたい。


 本書の中ほどに「これからの知的生活には資産より時間」という節
 がある(158頁)。ここに、1976年のベストセラー『知的生活の方法』
 (渡部昇一著、講談社現代新書)の話がでてくる。

知的生活の方法 (講談社現代新書 436)

知的生活の方法 (講談社現代新書 436)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1976/01
  • メディア: 新書

 この本を梅田氏は、「生きるために水を飲むような読書」の最初の
 一冊だったと記している。

 私もこの本を大学時代に読んで、こんな知的生活を将来送ってみたい
 と思ったのが、いまの「自然体的和尚生活」のはじまりといっていい。

 確かに、これからの知的生活は、当時渡部先生が実践した理想的な
 生活様式とはかなり違ってきているのかもしれない。

 ただ、その本質は変わらないし、やり方によっては30年前より
 はるかにアプローチしやすい環境がネットの登場によって整ってきた
 ともいえる。

 要は、どの部分に知的生活の価値をフォーカスするのか、
 ライフスタイルの価値観、あるいは人生観そのものをもう一度
 問い直してみたくなってきた。


 最後に、そのヒントとなるフレーズを「ウェブ時代をゆく」から
 引用しよう。


  レールがあると思っていても、実はそのレールがどこまで続いて
  いるかなんて、誰にもわからない時代である。だから、迷ったとき
  悩んだときには、時代の大きな流れに乗った新しいことにあえて
  巻き込まれてみる。そしてそこで試行錯誤を繰り返してはその先の
  可能性を手探りしていく。

  変化の激しい時期ならではのそんな生き方も
  あんがい自由で楽しいものだ。

 


 この本、今年中にあと3回は精読したいと思う。

 

 

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 <和尚のひとりごと>
   ★★★ イチオシ! ★★★

 <キーワード>
   ・日本のシステムで息苦しい思いをしている人のために
   ・「高く険しい道」と「けものみち」
   ・生きるために水を飲むような読書、パーソナル・カミオカンデ
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草むしりと選挙 [関心事]

 

 今度の土曜日は、わが家でホームパーティを開催する予定だ。

 昨年の夏、わが末息子の中学のサッカー部の仲間とその親が
 一堂に会してわが家に集まった。

 そのことがきっかけとなり、不定期ではあるがこうした
 パーティーを開催するようになった。

 前回の開催は、3月。

 とてつもない寒さと強風の中でにもかかわらず、
 中学の卒業を前にこのときは40人を越える人が集まり、
 朝までパーティーは盛り上がっていた。
 (私は途中で寝てしまったが・・・)


 高校に入って、それぞれの道を歩み始めた子供たち。

 サッカー留学で他の県にわたり、全寮制の高校生活で
 サッカー三昧に明け暮れている者もいる。

 高校に入って、サッカー部に入らなかった者もいる。

 わが息子のように、地元の高校でサッカー部には入って
 それなりにサッカーを楽しんでいる者もいる。

 離れ離れになって4ヶ月。

 どんな面々が集まってくるのか。
 今から楽しみにしている。


 そんなパーティーの予定があるので、
 我が家のベランダの掃除や家の周りの草むしりを昨日は行った。

 午後から雷雨という予報が出ていたので、
 午前中に選挙の投票と草むしりを行った。

 2ヶ月ぶりの草むしり。

 この時期、雑草の成長は著しい。
 腰の丈まで伸びた雑草が、あたり一面に生えている。

 ちょっと手をつけないと知らないうちにこんなにも
 伸びてしまうのかと、自然の成長に驚きを感じながら、
 汗だくになって草むしりをした。

 いい汗をかいた。


 そして、午後は予報通りの雷雨である。

 雷の鳴ってときは、さすがに家の中で本を読んだりしていたが、
 雷が遠ざかってもまだ雨が降り続いていたので、
 この雨を利用してベランダをデッキブラシで磨いた。

 雨にぬれながらの掃除で午前中のほてった体が
 少し引き締まったような気がする。

 このところ、ベランダもあまり手入れをしていなかったので、
 いたるところにくもの巣がかかったり、鳥の糞が落ちていたり
 していた。

 いつの間にか、ツタも生え放題に生えていたので、
 それも剪定した。


 こうして、草むしりをしたりベランダ掃除をしたりしていると、
 体が自然に溶け込んでいくような心地よい感覚が湧いてくる。

 自然も全く手をつけないと人間を寄せ付けない状態になってしまう。
 それを人の手を加えて整備し、人との共存を目指そうという
 わけである。

 草むしりもベランダ掃除も家の中の掃除と違って、
 季節の移り変わりという自然の変化を感じながらの
 作業となるので、楽しい。


 よし、これで準備OK。

 


 夜は、選挙速報を見た。

 というか、選挙速報を見たとたん、民主党の大勝を伝える報道が
 即座に出てしまったので、すぐに酒飲み時間となった。

 いまは出口調査という手法で、大勢はすぐにわかってしまうらしい。

 予想されていたこととはいえ、選挙速報が始まって5分も
 経たないうちに、大勢が判明してしまう放送のあり方に疑問を感じた。

 もちろん、立候補した当事者にとっては、いてもたってもいられない
 状況だろうが、我々投票した者にとっては、その結果がどんな形で
 表れるのか、じっくり見定めたいとも思うわけである。

 開票も進まない(始まらない?)うちに、当選や当選確実と
 いわれても、未も蓋もないような気がしてしまう。

 もう少し、選挙の勝敗の行方をじっくり見ながら、ちびちび
 一杯やる予定をしていたのに、これではお楽しみも何もない。

 というわけで、昨夜は酒を一気にあおってふて寝してしまった。

 

 そんなわけで、このメルマガも今朝、書き記している次第である。

 

 2年前、自民党が大勝したとき、今回の民主党の大勝を
 予想した人はいるのだろうか?


 自然も移ろいやすいが、人もまた移ろいやすい。


 気がつかないうちに、自民党の中に雑草が
 生い茂ってしまったようである。

 ここは大敗を謙虚に受け止め、
 草むしりからはじめてもらいた。

 民主党も今回の選挙の圧勝に奢ることなく、
 くもの巣を払いながら、ベランダ磨きに励んでいただきた。


 民意とはかくも移ろいやすいものなのだから。。。

 


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 <和尚のひとりごと>
   ★★★ 民意のバランス感覚? ★★★

 <キーワード>
   ・腐るな自民党
   ・奢るな民主党
   ・本当に、まじめにコツコツだよ!
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クルマの買い替え(は待った) [関心事]

わが家では、二台のクルマを所有している。

そのうちの一台は、上さんが故郷で遠距離介護用に使っている。
そしてもう一台は、自宅で利用しているワンボックスカー。
(とはいっても1000ccの小回りの利く省エネカー)

実はもう一台会社で借りているレンタカーがある。
このクルマは、ほとんど私が乗り回しているので、
実際には合計3台のクルマを利用していることになる。

これまで、仕事の関係でこのレンタカーを利用することが圧倒的に
多かったのだが、これからはクルマを利用して現場に出向く頻度が
これまでより減りそうなので、GW明けにこのレンタカーは引き取って
もらうことにした。


となると、会社や寮、あるいは自宅との行き来に何を利用するか。


いろいろ考えていた。


当初は、中古の軽自動車でも買って、それを利用しようと考えていた。
しかし、新聞広告のチラシや近くの中古屋に見に行ってやめることにした。

私の予算は、最大30万円。
それに対して、多くの中古軽自動車が60万円以上する。
中には30万円ぐらいで販売している中古の軽もあるのだが、
どう見ても他の中古車と比べて見劣りがする。

軽自動車なんてほとんどが安いだろうと高をくくっていたのだが、
とんでもない誤解だった。

今は、軽自動車もかなり高性能かつ豪華な装備で、
新車では百数十万円するのも当たり前の世界だとか・・・

なんか、バブルの再現のような気もするが、ガソリンの高騰や
環境への関心の高まりも影響してか、軽自動車の人気が上昇している
というのが実情のようだ。


というわけで、今回は車の購入は見送ることにした。


3人の子どもの教育費、上さんの長距離介護の交通費、
クルマ2台の維持費やガソリン代、そして私の飲み代・・・
わが家に3台のクルマを持つ余裕はないと判断した。
(トホホ)


とにかく、いま自宅で利用しているワンボックスをできるだけ、
使いまわすことで上さんと折り合いをつけることにした。

このクルマの最大の利用者は上さんなのだが、上さんもできるだけ
近場で買い物を済ませ、徒歩もしくは自転車を利用すると約束して
くれたのである。


わが家では、こうした倹約にみんなが前向きである。
ただし、私自身が衝動買いする癖があるのが玉にキズである・・・



昨日はそのクルマで上さんを駅まで迎えにいった。

数時間前に子どもから連絡が入り、駅まで迎えにいったときには、
嵐のような天気だったのだが、夕方にはその嵐も収まっていた。
(昨日は、家族の送迎かかりだったのだ)


上さんを降ろし、車庫入れのためにパワーウィンドウで窓ガラスを
降ろしたら、そのスイッチが壊れてしまった。。。

スイッチを押しても引いても、パワーウィンドウが動かない。
強引に引っ張っていたら、スイッチの取っ手がもげてしまった。

仕方がなく、ディーラーに電話して故障を見てもらうと、
修理代に二万三千円程度かかるという。


アチャー!!と嘆いても後の祭りである。


わがボログルマの隣に、新品の軽自動車が並んでいる。

新車はいいなあ~
と思う心を抑えてクルマの修理を見守る。


隣の芝生は青く見えるものとは、よく言ったものである。
もう30分もクルマ屋にいたら、思わず衝動買いしてしまったかもしれない。
(これが私の悪い癖である)


ときには、人間ガマンも必要である。
(なんて、ちょっと大げさか)


今日は、ダイソーめぐりでお目当ての商品を買い占める予定である(謎)
これも実は、衝動買いから端を発しているのである。


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丁亥の年 [関心事]

先日のブログで、干支のことに触れた。

 平成19(西暦2007)年の干支は丁亥(テイガイ)(ひのと・い)。
丁と亥があいまって、なにか起きそうな気配がある年だという。

「丁」は、従来の勢力(第一画)と直角に衝突して(第二画)、
新しい力を推進しようとする動きを示し、「打ち当てる(打)」意を表すそうな。

「亥」は、核に通じ、起爆的エネルギーを秘める。

というわけで丁亥の年は、新しい動きが目立ってきて、
大地震の起こりやすい年回りでもあるという。


地(亥)は天(丁)を剋し(反発し、乗り越えようとする)、下に立つ者が、
上に立つ者を乗り越え、克服しようとする現象が現れる。

小国は大国を乗り越えようとし、国民は政府を乗り越えようとし、
野党は与党を乗り越えようとする現象だとか・・・。

強い意志を持つことが求められている。

いよいよ亥年の面目躍如となりそうである。


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脳の話 [関心事]

 

最近、脳について書かれた本を何冊か読んだ。
その一冊の本について記す。

脳のなかの幽霊

脳のなかの幽霊

  • 作者: V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1999/08
  • メディア: 単行本

たぶん、この本が現在の「脳ブーム」の火付け役となった本だと思われる。切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を他人のものだと主張する患者、両親を偽者だと主張する青年等など、様々な患者の奇妙な症状を手掛かりに、脳の仕組みや働きを考えるオモシロイ本である。

「自己とは何か」「意識とは何か」についても言及している。かつて哲学的な問題であったがこうした問題が、現在では科学的な問題としてアプローチされていることに興味を覚えた。

自分のなかにある主観的世界観は、知覚というバイアスによって引き起こされる脳内現象に過ぎない。しかしそれは幻ではなく「クオリア」として確かに存在する。 主観と客観の違いは、「自我」と「神」の差から、この「クオリア」と「脳内化学反応」の差にまで縮められた。これが科学の進歩ということだろうか。

ラマチャンドラン氏の研究手法にも教えられることが多い。臨床という現場で、柔軟かつ臨機応変に実験や観察を進めている。こうした姿勢は是非とも見習いたいと思うのだ。

それにしても、人間の可能性には限界がないとつくづく思うのである。
ああ、面白かった!

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教育者のコミュニケーション力 [関心事]

昨日紹介した「一日で自分を変える法」のなかで教育の話がでてくる。その部分をちょっと引用する。

教育における最大の悲劇は、教師に自分が教える「教科」についてはよくわかっているのに、「生徒」のことは何もわかっていないことだ。優秀な教師なら、本能的にペーシングとリーディングのことを理解し、ラポールを築くことができるので、メッセージを生徒に伝えられる。教師の中には、生徒の飲み込みが悪いのは「生徒の学習能力の問題だ」と考えている人もいる。しかし、コミュニケーションで一番大切なのは、「伝える内容」ではなく、「相手からどんな反応を引き出すか」なのだ。(中略)ラポールを築くことのできる教師こそが、優秀な教師となり得るのだ。


この話の後に、次のような事例が紹介されている。

あるクラスで、生徒たちがいたずらを思いつき、午前九時きっかりに全員で教科書を床に落として先生を驚かせようとした。件の教師は、まさにその瞬間にチョークを置き、自分の持っていた教科書を床に落とした。そして「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃったわね」と言った。その後、生徒たちは先生の言いつけをよく守るようになったという。

先生が生徒と同じ行動をしてラポールを築くことで信頼関係(この場合は仲間意識)が生まれたのだろう。この事例の意味するところはとても重要だ。教育者として生徒に教育する前にラポールを築き、コミュニケーションを円滑にすることでその後の指導がよりスムーズに行われるというわけだ。

私の知り合いにも多数の教育者がいるけれども、その多くがコミュニケーション能力に長けているとは思えない人が驚くほど多いように思う。あくまでの教師と生徒という上下関係のなかで、上から一方的に下に見下すような態度、言葉遣いをする人が多いのだ。極端な人だと、人に向ってしゃべるのではなく、かぼちゃにでも向ってしゃべるような校長もいる。教師の資質としてのコミュニケーション力がもっと問われてもいいのではないか。もちろん、そうした能力の高い教師もいるが、こういう人は得てして学校内ではマイナー派に属する。

先日紹介した「共感力」にも出てくる、縦ではなく横の関係・・・
決して教師と生徒が同等だと言っているのではなく、
教師と生徒との関係が上から下への一方通行ではない関係。
権力や権威や肩書きや地位とは別の力で、
どこまで相手に影響を与えられる関係、そして先生と生徒との共感。
言葉や知識を超えた感情や感動、感覚や感性をも自由に共有できる関係。
先生が生徒に共感を求めるのではなく、
生徒からの共感を得る前に、まず、自らが生徒に深く共感する。
しかも、決して媚びたりするのではなく、あくまでも自然な形で・・・
そんな関係が教育者にも求められているのではないか。

ちょっと別の見方をしてみる。

人を説得するときに、相手を納得させることが本来の目的である。しかし、説得すれば必ず納得してくれるかというと、それほど甘くない。相手の納得の仕方を理解していないとうまく行かないことが多いと思う。説得する側のストーリーや強要だけでは相手が納得しないのだ。こうした相手の思考回路で考え、そこをベースに働きかけることは、ビジネスでも教育でも親子関係でも同質の重要性がある。20世紀の後半はあまりにもこうした関係が薄れてしまったのではないか。私自身の家族への接し方を含め、まさらながら反省している。

教育者だけではないのだ。
現代はまさにコミュニケーションによる共感力が求められる時代なのである。


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ラポールと共感力 [関心事]

 
一瞬で自分を変える法―世界No.1カリスマコーチが教える

一瞬で自分を変える法―世界No.1カリスマコーチが教える

  • 作者: アンソニー ロビンズ
  • 出版社/メーカー: 三笠書房
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 単行本
この本を読んだ。

書いてある多くのことが、これまでの知識を再確認するものだったり、自分の経験に即するものだったりした。そういう意味で有益な情報が多く盛り込まれた本である。

この本では、NLP(神経言語プログラミング)のテクニックがいくつも紹介されている。NLPは、言語と非言語が神経系に与える影響を研究するもので、人間の脳を思いどおりの方向へと導くための系統立った枠組みだそうだ。自分が望んだとおりの結果を出すために、脳を最大限に活用する科学だという。


NLPの手法として、モデリングリフレーミング、あるいはアンカリングなどが具体例とともに紹介されている。

モデリングとは、自分の求める結果をすでに出している成功者を見つけ、その人を手本にするということである。つまり手本とする人の行動、思考、しゃべり方からしぐさまで徹底的に真似ることが自分の求める結果を出す早道になるということだ。

これには確かに思い当たる節がある。私の敬愛する恩師は、そのまた恩師の行動をよく真似ていたと話を聞いたことがある。私自身も、その先生の真似を若いときにはよくしたものだ。(もっとも、その成果は先生の域にはとても届かなかったが・・・)

リフレーミングとは、「認知の枠組みを変える」ための技法で、経験したことや行動の意味づけを変えることとある。これをうまく応用すれば、イメージや認識の仕方で、ピンチはチャンスに、失敗は成功のきっかけに変えられる。リフレーミングという言葉は知らなかったが、こうした発想の転換は私自身日常的に用いている。

アンカリングは、いい意味での“パブロフの犬”だ。特定のきっかけによって、いつでも決まった反応が起こるような条件づけをすると、いつでも確実に能力を発揮できるという。高校野球でPL学園の選手が、打席に入ってバッティングする前、かならずユニフォームの胸のところにくくりつけたお守りを握りしめる。そうすることで大きなパワーが発揮できる(ものと信じている)ようなものがアンカリングだろう。

私の経験でいえば、お尻の筋肉をきゅっと締めることで、気合が入るというのがひとつのおまじない的習慣になっている。講演や発表の前に、この「きゅっ」をやることで気合が入るとともに落ち着きが得られたりする。

と、前置きが長くなってしまったが、この本の中で最も参考になると思ったのが、「ラポール」という概念である。

ラポール【(フランス)rapport】
心理学で、人と人との間がなごやかな心の通い合った状態であること。
親密な信頼関係にあること。
心理療法や調査・検査などで、面接者と被面接者との関係についていう。


ラポール
は、他人の世界に入り込む能力であり、「二人の間に強い理解、共通する絆がある」と相手に思わせること、すなわち成功に導くコミュニケーションの本質であるという。 そのラポールを築くためには、まずお互いの共通点を見つけることから始める。そのために「ミラーリング」(または「マッチング」)という手法をとるというのだ。

要するにミラーリングとは、相手の外見を真似ることだ。

ホントかよ?なんて思う人がいるかもしれないが、本には次のような研究データが紹介されている。

対面コミュニケーションでは、相手があなたの言葉から受取るメッセージは、全体のわずか7%にすぎない。そして、38%は声の調子によって伝えられる。さらにコミュニケーションの55%、つまり半分以上は外見やボディランゲージによって伝達される。顔の表情、身振り、動きの種類によって伝えられる内容の方が、言葉で伝達される内容よりも、多くの情報を含んでいる・・・


この記述を読んだとき、幼少の頃のことが思い浮かんできた。初対面の相手といち早く打ち解けるには、相手のしぐさを真似ることだったという経験である。わが末息子は、ある意味そのミラーリングがとても上手い。どこに行ってもすぐに仲間をつくってしまう。これはまさにミラーリングを本能的に実践していることの裏づけといっていい。岐阜にいちじき暮らしていたとき、すぐに方言を覚えてしまったのはこの息子だ。埼玉に引っ越してきたら、こんどはすぐにこっちの言葉に馴染んでしまった。そのときにはすでに郡上弁はすっかり忘れてしまっているという具合だ。

ラポールを築くためには、柔軟性が必要である。ラポールの形成を妨げる最大の障害は、自分の世界観を相手に押し付けようとすること。相手の世界観に合わせて自分の行動を変えることがコミュニケーションという人間関係の構築の大きな武器になることは確かなようだ。

この本では、こうしたNLPのさまざまな手法をテクニックとして紹介している。おそらく現代科学ではこうした行動の効果がある程度証明されているのだろう。ただ、こうしたテクニックを単にテクニックとしてのみ自分の行動に取り入れようとしてもなかなか上手くいかないと思う。というか、こうした行動が無意識にできるようになるくらい自然に身につけないと大きな効果は期待できないのではないだろうか。

付け焼刃ではやはり相手にもその行為が見破られてしまうだろう。

もちろん、最初はぎこちなくても、何度も繰り返していくうちに自分の行動パターンとして身についていくということもある。本来はこれが望ましい姿なのだろう。わが末息子のようにこうした行為を本能的に幼い頃から身につけている人間にはたやすいことでも、多くの人にはなかなか身につかないテクニックなのかもしれない。ただ、あきらめちゃいけないとも思う。

ここまで書いてきて、ひとつ思いついた。このNLPの手法の実践は、まさに同調力から、共感力へのつながる最短の道かもしれないということだ。

先日紹介した「共感力」という本といい、田坂広志さんの最新刊といい、こうした共感、共鳴がこれからのビジネスのキーワードになっていくという視点は共通している。ラポールとは共感すること。そのために柔軟で相手に同調する力を身につけたいと思う。


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いじめと親の責任 [関心事]

いじめを苦にした子供の自殺が世間の話題になっている。
そのことで多くの学校や教師が槍玉にあがった。

いじめの問題を隠そうとしたとか、
いじめに加担したとか・・・



不思議に思うことがある。



いじめの問題はすべて学校と生徒という問題で
語られてしまうということに対する疑問である。

いじめ問題でいじめにあった親は、何故か常に
被害者の立場で登場する。
そして、激しく学校側を非難する。

もちろん、いじめに会って自殺した子供の親なのだから、
その悲しみが計り知れないことは理解できる。

しかし、いじめから自殺に至るまで、本当に100%
学校側だけの問題だったのだろうか。
そして、家庭や親側に問題が全く無かったのだろうか。

そんなことを疑問に思うのである。

子供がいじめで悩み、自殺にまで追い込まれる。
そこに至るまでは、かなりのシグナルを発信している
のではかと思う。

それに対して、親として子供と対峙する場面が
少なからずあるのではないか。
そして、最悪の選択(つまり自殺)をしないために
親として子供を守ることが最低限の責務ではあるまいか。

親としてその責任を全うしたと言い切れるのだろうか?

私が同じような状況に陥ったとき、教師や学校を
訴える前に、自分の親としての至らなさを悔いるに
違いない。そう思うのである。

子供の自殺の問題だけではない。
会社でも同じような問題が頻繁に起きている。

親として、上司として、そして経営者として、
その責務を全うしない人間が世の中に蔓延している。


「いじめ」と幼児期の子育て―親・保育者の責任と役割

「いじめ」と幼児期の子育て―親・保育者の責任と役割

  • 作者: 平井 信義, 本吉 円子
  • 出版社/メーカー: 萌文書林
  • 発売日: 1996/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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地に堕ちた「天の声」 [関心事]

「天の声」という言葉が毎日のように報道をにぎわしている。
福島、和歌山に続き、宮崎の知事も「天の声」の件で、逮捕された。

事件の真相がどのようになっているのか知る由もないが、
「天の声」のイメージが世の中でこれほどまでに低下した
ことはないだろう。

「天の声」といえば、かつて大平正芳氏と福田赳夫氏との
総裁選挙戦で福田氏が敗北した際、「天の声にも変な声が
たまにある」という弁があたまに浮かんでくる。

もともと、「天の声」というのは、人智では計れないような
神の啓示を意味するものだと思うのだが、最近では
知事やその側近が「天の声」と称して、一定の業者に
便宜を図るような場合の殺し文句に成り下がって
しまったみたいだ。

道路財源の問題での族議員もしかり、
学校のいじめ問題での教育者もしかり、
自分達の立場、既得権益を守るための偏った言動が
多いことに目を覆いたくなる。


「天の声」も地に堕ちたものである。



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