SSブログ

納骨と新盆 [和尚生活]


昨日は、鴨川の実家でわが父、雲山和尚の
納骨と新盆の法要を営んできた。

今年の2月16日に自宅の風呂場で他界してから、
約5ヶ月を経てようやく納骨にまでこぎつけた。

納骨のあとは、新盆の法要。

ごくごく身内だけでの法要となったが、
それでも30名弱の関係者に焼香いただいた。


2月以降、ほぼ月2回のペースで、埼玉の自宅から寺のある
安房鴨川を往復した。その間に地元のみなさんやお寺関係の
皆さんと接することができて本当に良かったと思う。

養父母とも他界したが、父母を知る方々と接するなかで、
私の心の中でその存在がますます大きくなっていくことを
実感している。

2月に密葬を終えた後、お寺や別宅の後片付けや
大掃除には正直、相当手を焼いた。

今となって思えば、これも護持会(檀家)の皆さんや寺のあとを
引き継いでいただくの方丈さんとのつながりを作るために
亡き父(和尚)の仕組んだ仕掛けだったのだなと、苦笑している。

密葬のあと、私たち遺族の勝手を言ってお骨を埼玉の自宅の
方に一時的に預からせていただいた。

そのことで、父は相当困惑していたのかもしれない。

2週間前に営んだ本葬のときは、大雨で納骨はやむなく延期。
やはり、せっかく長年住み慣れたお寺に戻ってきて、
すぐに真門山に納骨されてはたまらんと思ったのだろう。


そして、昨日の納骨である。


この長年住み慣れたお寺の様子を見て、
「おお、お寺もお墓もずいぶんきれいになったなあ」と、
父もようやく安心(観念?)したのだろうと思う。


代々の和尚が眠る真門山のお墓に無事
納骨することができた。


kamo080712_1.jpg

そして、ここからはお寺だけでなく、檀家の暮らす家々が一望できる。

kamo080712_2_2.jpg


これで、一周忌までは一段落。

ではあるが、せっかくできたお寺や檀家、そして親族との絆。
墓参りもかねてこれからもちょくちょく訪れたい。


最後の本葬のときに準備した喪主の挨拶文を
ここに掲載しておく。


実際にはこの挨拶をする機会はなかったが、
心の中で皆さんにお礼を申し上げた次第である。



■本葬のあいさつ

遺族を代表いたしまして、皆様に一言ご挨拶申し上げます。

本日はご多用中にもかかわらず、ご会葬、ご焼香を賜りまして
誠にありがとうごさいました。

おかげをもちまして昨日からの逮夜、本日の葬儀とも
とどこおりなく相すますことができました。

父の生前中は一方ならぬご交誼(こうぎ)にあずかり、
また本日は最後までお見送りいただきまして、
故人もさぞかし皆様のご厚情に感謝いたしておることと存じます。

また、亡き父がこの1、2年衰弱するなかで多くの皆様から
お見舞いや励ましを賜りました。父に代わり、心からお礼
申し上げます。本当にありががとうございます。


生前の父は、小・中学校の教師と寺の住職という2つの仕事に
従事する中で、多くの方々との親交を深めたさせていただきました。

私は縁あって●●家の養子として迎えていただきました。
その二十数年前当時は、父はすでに教師の職を辞し、
この真門山常応寺の23世雲山和尚としてこの地に
どっしり腰をおろし、悠々自適の生活を送っておりました。

盆や正月に帰省すると、「おお、よく来たなあ」と私ども夫婦や
子供たちを歓待してくれたことを懐かしく思い出します。

そんな夜は、食事には一切手をつけず、一升瓶をかかえて
日本酒を酌み交わすことが常でした。私ども家族の近況報告に
何度も頷きながらうれしそうに聞き入れていただきました。

私にとって、かけがえのない父であり、人生の師でした。


そんな父の生活に転機が訪れました。

父の陰となり日向となって支えていた母が病に倒れ、
2年半ほど前に他界したのです。

母の死がよほどショックだったのでしょう。
その頃から、父はみるみる衰弱していきました。

医者に見てもらったらと、何度か説得しましたが、
「まあまあ、そのうちに」とさらりと受け流されました。

私どもの暮らす埼玉に連れてこようかと、家族で相談しましたが、
この地を離れることが返って体によくないだろうということで
しばらく様子を見ることにしました。

それから、私たち家族の遠距離介護の生活が
はじまったわけです。

そして、寺のお勤めも難儀になってきたので、そろそろ
隠居生活を勧めたりもしましたが、
「いやいや、もうちょっと体がよくなればなあ」
引退勧告に聞く耳を持ちませんでした。

母の三回忌の供養が生きる望みだったのでしょう。
「三回忌まではがんばるよ」と繰り返し申しておりました。

今年の1月26日に母の三回忌を無事すませたあと、
父の衰弱振りがますます顕著になりました。

もうそろそろ一人での生活が限界だろうと、私どもの住む
埼玉に無理やりでも連れてこようとしていた矢先に
父は永眠したのです。

亡くなる直前、寺に電話を入れると、
父は次の日に予定されている法事の準備に余念がない様子でした。
そして、大好きなお風呂に入った状態で、あの世からのお迎えが
やって来たのです。

おそらく母のお迎えだったと思います。


 最期の最期まで、医者にかからず、
 最期の最期まで、この地を離れず、
 最期の最期まで、寺のお勤めを果たそうとした父。

 大好きなこの地で、
 大好きなお風呂の中で、
 そして大好きな母の元に向かった父は、
 最高の旅立ちだったのだろうと思います。

その表情は、穏やかそのものでした。

頑固一徹。
痛いとか苦しいとか一言も言わず、
隠居生活もせず、最期まで和尚をやり抜こうとした父。

多くは語らない中に、自らの信念を自らの行動で
貫き通した本物の和尚だったと思います。


 年年歳歳花相似たり。
 歳歳年年人同じからず。



生前の父が、お経の前によく口にした句です。

真門山常応寺も新しい時代がはじまります。

私ども寺の一檀家として加えていただき、
この地に眠る父、母の供養をしてまいりたいと思います。

どうか皆様、今後とも、これまでと変わらぬご支援、
ご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

意を尽くせぬあいさつではございますが、
お礼の言葉とさせていただきます。
本日はまことにありがとうございました。


【合掌】


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

ヒルティの「幸福論」構想と戦略 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。